「CRITICA」中井英夫特集号 小樽文学館で委託販売中

市立小樽文学館で「没後20年 中井英夫展」が開催中です。
(展示概要 http://otarubungakusha.com/exhibition/201304804
『虚無への供物』の完成を報告する江戸川乱歩宛て書簡が初公開とか(読売新聞記事 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20131022-OYT8T00398.htm)、
江戸川乱歩の『孤島の鬼』の原稿と竹中英太郎の挿絵も展示とか
竹中英太郎記念館 http://takenaka-kinenkan.jp/diary/log/eid2871.html)、乱歩ファンも見逃せない内容です。

あと、探偵小説研究会の「CRITICA」8号 特集 中井英夫歿後20年 ですが、小樽文学館で販売をしていただいております(1部千円)。即売会の参加は東京ばかりで、遠方の方は通販をご利用いただいていますが、中井英夫展は来年1月13日まで開催されていますので、訪問の折にはお手に取っていただければと幸いです。
(「CRITICA」8号内容 http://www.geocities.co.jp/tanteishosetu_kenkyukai/critica_08.html

三隣亡と小沢仁志と探偵たち

9月22日(日)

初台の(httZaroffという画廊に。石神茉莉の《玩具館》シリーズ(でいいのか?)の舞台となる店〈三隣亡〉をモティーフにしたギャラリーが開かれているのである。これまで3回行きそびれていたのでようやくだ。
多分、新線新宿駅が出来て以来、初台で降りるのは初めて。せっかく明大前で各駅に乗り換えたのに、本線の方の新宿行きでしたよ。仕方なく新線の方まで歩いて、あらためて初台へ。
降りてみると駅前の商店街がやけに賑わっている。お祭りらしいが、阿波踊り――ってここもかよ! 日本人はどれだけ好きなんだ阿波踊り
喧噪をよそに、昭和っぽい横道に入ってしばらく歩くと、小さな五差路に三角にはまり込んだ黒い家。黒い木の扉を開けると――あれ、喫茶店だよ。しかも狭い店内は満員。マスターは難しい顔をしてるし、ああ俺はどうすればいいの……。そこで当の石神さんはじめ、見知った顔に気づいてホッとする。どーもどーもなどとやっているうちに、マスターから「奥の扉通ってギャラリーに行ってください」と教えられた。そこには二階に上る階段が。三角形の対辺に直接の入口が開いていた形である。
小説内では店長がゾンビマニアだったりして、異形の雑貨屋のような趣だが、今回のギャラリーのテイストはゴスロリ系。ドールやアクセサリーが中心です。なかなかの盛況で、富士山Tシャツに短パン姿のちょっと場違いな俺も上手く紛れている。
買おうかなと思った作品もあったのだが、次に行くところもあるし一回り観て取りあえずは撤収。下の店でもゆっくりしたいし、10月1日までの会期中にもう一度来られるといいのだけれど。


駅に向かう途中、すれ違ったちょっと強面の男性に見覚えが。あれ!? 小沢仁志!? 小沢仁志じゃないの!? スウェット姿で祭の雰囲気にすっかり溶け込んでいたけれど、地元なのか?
ドキドキしつつ、都内某所で開かれている探偵小説研究会の会合へ。今年の『本格ミステリ・ベスト10』の企画会議。途中からは居酒屋に場所を移して、和文タイプって活字を全部引っくり返しちゃったらどうするのか、とか、なんだか牛肉でしか摂れない栄養素があるらしいので、週1回牛肉を食べることにしている、といった重要な話題について話し合い、9時ごろ散会。
しっかし、あまりに漠然とした健康情報に乗って毎週牛肉を食べることにしながら、スーパーから買って帰る10分くらいの間に悪くなるのが怖いとか、坂の登り降りが面倒くさいとかでパルシステムに宅配を頼んでいるとは、いろいろ間違っているぞ横井司。


人魚と提琴 玩具館綺譚 (講談社ノベルス)

人魚と提琴 玩具館綺譚 (講談社ノベルス)

謝肉祭の王 玩具館綺譚 (講談社ノベルス)

謝肉祭の王 玩具館綺譚 (講談社ノベルス)

音迷宮

音迷宮

本格ミステリ・ベスト10〈2013〉

本格ミステリ・ベスト10〈2013〉

「CRITICA」8号 特集「中井英夫歿後20年」

コミックマーケット84で頒布します。http://www.comiket.co.jp/
参加日:8月10日(土)
配置ホール:西1
配置場所:や−41b
サークル名:探偵小説研究会


『CRITICA』第8号 千円  

●特集――中井英夫歿後20年
 ハネギウス一世との邂逅 本多正一インタビュー  聞き手・濤岡寿子
  恋をしなさい(再録)             本多正一
 中井英夫と北海道                大森滋樹
 日蝕の翳り 『とらんぷ譚』と雑誌《太陽》    千街晶之
 薔薇幻視、香りへの旅、囁きの夜について     濤岡寿子
 中井英夫雑記                  巽 昌章
 中井英夫研究・参考文献目録(1954〜1991)    本多正一・編
 中井英夫研究・参考文献目録(1992〜2012)    橋本順子・編

●現代本格の周辺
 探偵が推理を殺す                小田牧央
 「推理小説の論理」をめぐって 『探偵小説の論理学』批判(その一) 巽 昌章

●解放区
 B級ミステリ映画への招待・パート2       千街晶之
 ささいなこと   スーザン・グラスペル/波多野健訳・解説

統計学的知と本格ミステリをいかに突き合わせるか

ジャーロ」No.47の「〈MYSTERY ランダムウォーク〉(第16回)毒殺と確率論的世界」で、限界研・編『21世紀探偵小説』収録の「結語――本論集の使用例」(飯田一史)に言及したところ、飯田さんのブログ「insight critic」で的確なコメント をいただきました。以下、走り書きですが、ご返事申し上げます。

じゃあ何が言いたかったかというと、僕は1+2が大事ですよね、と言いたかったものの、1の前提となる統計学的な手法だの確率論的思考と言ったことにだけ注目されているのでは、という印象をなんとなく受けたのが個人的に気になった、てなスーパー些末なことですね……。

これは飯田さんのおっしゃる通りで、拙文で「注釈」という言葉をつかったのも、本丸に切り込んだとは言いがたいところがあるからです(ヘレン・マクロイの「歌うダイアモンド」に関しては、飯田さんの感想を聞いてみたいのですが)。枚数の都合で一面的な文章の切り出し方をしてしまったため、これでは単なる揚げ足取りなんじゃないかと気になっていたのですが、冷静に読んでいただいて感謝しております。

拙文であげた作品のなかで、一番クリティカルなのはスタニスワフ・レムの『枯草熱』でしょう。ただ、レムを本格ミステリ作家と呼ぶのはさすがに苦しくて、及び腰になってしまったのが敗因かと。『枯草熱』にしろ、ゾンビ小説の『捜査』にしろ、レムのSFミステリは従来の本格の文脈からするとものすごく扱いに困る小説で、むしろ「21世紀探偵小説」の先駆と見なした方がいいのではないか(これは巽昌章氏の示唆によるもの)と思います。

今号の「ジャーロ」は読みどころが多くて、飯田さんも書いていましたが、『ロスト・ケア』の葉真中顕氏のインタビュー、Excel云々のくだりは、拙文のウィークポイントを突かれたような気がしましたし、限界研・海老原豊氏の「謎のリアリティ(第11回)ミステリと複雑系」も、隣接するテーマを扱っていて、ずいぶん勉強になりました。

そしてカオスをミステリに導入すると因果関係の記述が原理的に不可能となり、動機を説得的に提示できなくなる。謎−論理的解明という因果律を屋台骨とするミステリとカオスは、端的にいえば相性がよくない。(海老原豊「ミステリと複雑系」)

カオスにしろ、Excelにしろ、紙の小説に実装するのはほぼ無理、というのが「21世紀探偵小説」の現時点での最大のネックなのではないかと思うのですが、紙の小説で生計を立てているオールドタイプの書き手からすると、たとえ不正確な濫用でも、当面は1+2を低コストな「修辞」でだましだまし繋いでいくほかないんじゃないか、というのが偽らざる実感です。

『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』(その3)

『増補版』の解説のラストで、都筑道夫晩年のミステリ観の変化をめぐって、ジョルジュ・シムノンのメグレ警部シリーズに言及したのですが、なにしろメグレ物は巻数が多いので、未読本が山のようにある。だからメモというより、宿題といった方が正確でしょう。それでもあえて付け加えておくと、1990年代の都筑は、犯罪小説と本格ミステリ(探偵小説)の線引きについて、再考を迫られていたのではないかと思います。

前回のエントリで触れた「頭上の侏儒」は、『読ホリデイ』1990年1月分の記述ですが、その翌々月に書かれた「巴里の色彩」という文章で、さっそくメグレ・シリーズが俎上に載せられています。注目すべきは、休暇中のメグレが「新聞にでる記事を読んで、一般大衆とおなじように、事件を推察しようとする」作品、『メグレ推理を楽しむ』について語っているところでしょう。

 これはアームチェア・ディテクティヴになっているわけだが、それが趣向のための趣向でないところも、すぐれた点だ。警察事情に通じた傍観者として、メグレは新聞を読んでいる。カフェのテラスで読んでいて、隣りのテーブルの若い男女が、おなじ記事に夢中になって、意見をのべあうのに、メグレは耳をかたむける。そして、考えるのである。
 大衆が犯罪記事に興味を持って、もっとくわしいことを知りたがるのは、決して不健全な興味からではない。人間というものが、どこまで行ってしまうことがあるか、それが知りたくて、熱心に読むのだ、と考える。新聞記事だけを通して、事件を見まもるのは、刑事になってから、はじめての経験なので、メグレは一種の感動をおぼえる。
 この部分は、そういうかたちで、犯罪小説の意義を語っている、といっていい。

この指摘が興味深いのは、新聞記事を通したアームチェア・ディテクティヴという趣向が、ポーの「マリー・ロジェの謎」を踏襲している点です。結論を先に言ってしまうと、おそらく都筑は、犯罪小説と本格ミステリの分岐点がそこにあると考えている。ゴシック・幻想文学の系譜に連なる「モルグ街の殺人」より、ジャーナリスティックな犯罪読み物の延長線上にある「マリー・ロジェの謎」への関心が優先しているわけで、晩年のミステリ観の変化はもちろん、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論自体のポイントも、ここらへんにあるような気がします。

ちなみに島田荘司本格ミステリー宣言』が、同じくポーへの原点回帰を訴えながら、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』とまったく逆の結論に至ったのは、「モルグ街の殺人」と「マリー・ロジェの謎」の狙いの違いを反映したものでしょう。実在の事件をモデルにしているとはいえ、「密室」という謎をメインに据えている前者と異なり、スキャンダラスな市井の犯罪を扱った後者には、超自然や幻想が羽を伸ばす余地はないのですから。

ところが、「頭上の侏儒」に書かれているのは、ジャーナリズムの進化によって、リアリスティックな犯罪小説も、そうした幻想の領域(狂気)を扱うことができるようになった(扱わざるをえなくなった)ということです。だからこそ都筑は、犯罪小説と本格ミステリの線引きを再検討しなければならない、と考えたのではないでしょうか。

最後の方はまだ考えの整理がついてなくて、論旨が混乱しているのですが、ここから先は今後の課題ということで、いったん締めることにしましょう。【この項おわり】

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

都筑道夫の読ホリデイ 上巻

都筑道夫の読ホリデイ 上巻

都筑道夫の読ホリデイ 下巻

都筑道夫の読ホリデイ 下巻

『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』(その2)

昨日のエントリで、『増補版』が「刊行されました」と書きましたが、実際に書店の店頭に並ぶのは、今日か明日以降になるみたいです。まあ、それはともかく。

今回の『増補版』には、佐野洋氏との「名探偵論争」を始めとして、「都筑道夫の文章の中から、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を読むうえで、または、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイについて考えるうえで、有用と思われるもの」(編集後記)が追加されています。現代本格という観点から見て、特に興味深いのは、最後の四篇(1988年から90年にかけて発表されたエッセー)で、還暦を迎えた都筑道夫が、自らのミステリ観の変化について語っている文章でしょう。

その流れで読んでいくと、「増補」篇の最後を締めくくる「頭上の侏儒」というエッセーの末尾、「話はかわるが、私は時代小説も書く」以下のくだりが、いかにも唐突で蛇足っぽく見えるかもしれません。ただ、このくだりは別の意味で、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論とつながっていて、都筑道夫の思考パターン(発想のクセ)がはっきり出ているところだと思います。それについて、簡単に触れておきましょう。

文中、「それが、ひょんなことから、大森貝塚の発見者、E・S・モースを探偵役にして、明治十年の東京を書いてみよう、という気になった」とあるのは、「オール読物」1989年12月号に発表された「西郷星」のことです。『魔海風雲録――都筑道夫コレクション〈時代篇〉』に収録されているので、今でも読むのはむずかしくないでしょう。

これはひとことで言うと、アメリカ人居候探偵キリオン・スレイと『安吾捕物帖』を合体させたような小説で、作中の時代設定は、山田風太郎『警視庁草紙』と『安吾捕物帖』の間。謎解きはずいぶん軽めですが、お抱え車夫の雫一太郎(リキシャマン・イチ)ほか、脇役の配置に意を凝らしているので、シリーズ化を意図していたのかもしれません。この短篇で面白いのは、東京大学のお雇いアメリカ人教授のモースが、若いころにポオの探偵小説を読み、推理の方法論を学んだと述べるところでしょう。

「(前略)それで、知りあいから本を借りて、ポオのショート・ストーリイを読んだ。奇妙な話を書くひとでね。人殺しの犯人を、つきとめる話もあった」
「そんな絵入新聞にのるような話を、書くんですか、詩人でもある作家が」
「まじめに考えた小説で、しかも、おもしろかった。殺人事件を解決するにも、事実をあつめて、観察して、推理すべきだ、というんだよ。そうすれば、どんなに不可思議なことでも、明快になるって」
「先生の研究方法と、おんなじですね」

都筑道夫の描くエドワード・モースは、明治十年の日本で、アマチュア名探偵たりうる条件――すぐれた観察力と推理力を持ち、知的好奇心が旺盛で、世間の常識やしがらみに左右されない立場にある――をしっかりと備えている。かつて都筑は「私の推理小説作法」の最終回で、小林久三『暗黒告知』の年代的齟齬を指摘したことがありますが、モースという探偵役の選択は、その問題点を見事にクリアしていることがわかります。

本人も認めているように、晩年に至る過程で、都筑道夫のミステリ観には見過ごすことのできない変化が生じているのですが、その一方で「西郷星」のような作品を読むと、実作者としての名探偵観、あるいは名探偵というキャラクターに求める条件は、「黄色い部屋はいかに改装されたか?」の連載を始めた1970年当時から、ほとんど変わっていないようにも感じられます。【この項つづく】

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

魔海風雲録 (光文社文庫)

魔海風雲録 (光文社文庫)

『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』

都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』が、フリースタイル社から刊行されました。編者の小森収氏からの依頼で、私も10ページほどの解説を書いたのですが、紙幅の都合その他で書きそびれたことがずいぶんあります。刊行記念という名目で、書き落としたトピックをいくつか補足しておきましょう。

「黄色い部屋はいかに改装されたか?」を読むと、「トリックよりロジック」という前半の主張と、「名探偵よ復活せよ」という後半の主張との間に飛躍があることは、どうしても認めざるをえないと思います。「名探偵論争」もそうですが、この飛躍をどう埋めるかというのが、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論のポイントでしょう。

その飛躍を埋める補助線のひとつとして、若き日の都筑道夫が師事した大坪砂男の作風を参照してみてはどうか。1993年、国書刊行会の[探偵クラブ]叢書に収められた『天狗』の解説、「サンドマンは生きている」の中で、都筑は次のように記しています。

 おりから、戦後最初の探偵小説ブームが起りはじめていたが、二十一年末に、漢字制限が実行されて、偵の字がつかえなくなった。探てい小説と書かなければならないのは、どうも落着かない、と木々高太郎が提唱したのが、推理小説という名称だった。それに魅力を感じて、大坪砂男はミステリイを書きはじめ、佐藤春夫のめがねにかなったのが、『天狗』『赤痣の女』『三月十三日午前二時』の三篇だったらしい。感情の解放を、これまでの小説は、情緒をもって行ってきたが、エドガー・アラン・ポオはそこに論理を持ってきて、短篇小説の新しい書きかたを世にしめした。したがって、必要なのは探偵という人間ではなく、論理を推【すす】めることだ。「推理によって、叙情する文学」と、大坪氏は表現していたが、そこに魅力を感じたのだった。【太字強調は法月】

しかし、文体の精錬に意を注ぎすぎるあまり、大坪砂男はどんどん寡作になっていきます。ある時期からは、ストーリイの腹案を執筆協力者に口述して、第一稿を書いてもらい、それを叩き台にして一から自分の文章に書き改めていく、というやり方をしていたようです。都筑自身、「たしかに私も二作ほど、第一稿を書いている。ほかの作品を、手つだったひとも、知っている」と打ち明けています。

 だが、当時の私は、「要するに、へたに書くと、どうなるかわかれば、うまく書けるんだ」と、ひがんで、だんだん大坪氏から離れていった。私の原稿生活も破綻して、方向転換をやむなくされ、早川書房につとめるようになったから、暇がなくなったせいもある。「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン日本語版」の編集を三年半やって、私が小説家にもどったころには、大坪氏の名は雑誌では見られなくなっていた。

「探偵という人間」を必要としない、「論理を推めること」に特化した「推理」小説は、ジャンル小説としてのアクチュアリティを失って、先細りしてしまう危険を秘めている。だからこそ、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイには、「探偵という人間」をあらかじめインストールしておかなければならない――やや穿ちすぎの見方かもしれませんが、青年時代の都筑道夫は、大坪砂男という反面教師から、そうした教訓を学んでいたのではないでしょうか。【この項つづく】

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

天狗 (探偵クラブ)

天狗 (探偵クラブ)