「ゲーデル問題」問題

Twitter上で、いわゆる「ゲーデル問題」に関する議論が行われていたらしい。私はミステリー界にこの問題を持ち込んだ元凶とされているので、歴史的な資料として――自戒と反省もこめて――『現代思想』(1995年2月号)に寄稿した「初期クイーン論」の導入部分を再掲しておく(斜体字部分は、原文では傍点。煩雑になるため、註は省略した)。言うまでもなく、これはソーカル事件が明るみに出るより前に発表された文章である。

       *

はじめに

 科学基礎論から分析哲学に転じた研究者である野家啓一は、「柄谷行人の批評と哲学」(『国文学』1989年1月号)と題したエッセイのなかで、次のようにいっている。

 柄谷は「形式化」の極限において体系がパラドックスに陥り、内部から自壊せざるをえない構造機制を不完全性定理にちなんで「ゲーデル問題」と名づけている。かつて『隠喩としての建築』を読んだ時、私はその着眼の卓抜さと鮮かなレトリックには感嘆したものの、「専門学者」としての見地から、彼のゲーデル理解とその敷衍の仕方には一種の「あやうさ」を感じざるをえなかった。というより、その「あやうさ」が後にエピゴーネンたちによって増幅され、「ゲーデル問題」が過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めたことに危惧の念を覚えたのである。柄谷の問題提起の切実さに比して、一般に流布した「不完全性定理」の解釈はいかにも厳密さを欠き、寸足らずの安手の衣服をまとわされているように見えた。しかし、柄谷が抱え込まざるをえなかった困難、あるいは彼がそのような〈問題〉に逢着した必然性は、私なりによく理解できたつもりである。

 年譜の記述にしたがえば、柄谷行人が「ゲーデル問題」を集中的に考えていたのは、1980年代前半の限られた一時期にすぎない。自己言及的な形式体系の「内部」をめぐる徹底的思考を「独我論」として排し、ヴィトゲンシュタイン的な「教える=売る」立場への「転回」を果たした『探究』の連載が『群像』誌上で始まったのは、85年新年号からであり、「転回のための八章」と題された付論を含む『内省と遡行』が刊行されたのも、同じ85年の5月である。つまり柄谷単独の文脈に則していえば、いわゆる「ゲーデル問題」は、すでに十年前の時点でいったんケリが付けられている。「私は『内省』からはじめる方法において可能なぎりぎりのことをやったという自負がある」(同書あとがき)。しかし思想家個人の固有な思索と、それが一般に流通し享受される際のありようには、時間的・内容的なズレがある。柄谷の「態度変更」にもかかわらず、「過剰な意味づけをされたまま安易なメタファーとして一人歩きし始めた」いわゆる「ゲーデル問題」は、80年代の末に至るまで、この国のあらゆる知の領域を席捲し、強力な呪縛をかけ続けた。
 後に柄谷自身が認めるように「この考え方はフィヒテヘーゲル的な観念論」の色彩を帯びていたが、むしろそれゆえに、80年代のポストモダン的言説の支配的バックボーンとなりえたのである。また『隠喩としての建築』『内省と遡行』の二著には、それ以前にも以後の著作にも見られない、異様な切迫感と知的スリルの輝きに満ちたアクロバティックな論述スタイルが駆使されていて、読者はその晦渋な文体に酔い痴れずにはいられなかったという側面も無視できない。思想が人をつかむのは、けっして理論的な水準においてのみではないのだ。野家啓一が「専門学者」の見地から見出した「あやうさ」とは、まさにこうした魅力と表裏一体のものだったはずである(わざわざこういう前置きをするのは、私もこの時期の柄谷行人の毒気に当てられた読者であることを告白しなければならないからだ。個人的な感懐になるが、私は『探究I』を読んだ時、「転回」の理論的インパクトは別として、そのあまりにもあっけらかんとした記述スタイルへの移行に、なんとなく拍子抜けしたような思いを抱いたことを覚えている。この印象は『探究II』を読むまで、なかなか消えなかった)。
 むろん、拙論の目的は柄谷の思考の軌跡を追いかけることではない。柄谷行人という鏡に、アメリカの推理作家エラリイ・クイーンの作風の変遷を映し出し、クイーンの諸作においてくりかえし危機的にあらわれる「形式化の諸問題」を浮き彫りにすることである。私は本稿の記述を、柄谷が『隠喩としての建築』『内省と遡行』で追究した「ゲーデル問題」という枠組に全面的に依拠して進めるつもりでいる。いうまでもなく、それは野家啓一のいう「あやうさ」に目をつぶるばかりか、柄谷固有の文脈においても、十年という時間的な「遅れ」をカッコに入れることにほかならない。90年代も半ばを迎えた時代に、なかんずく『現代思想』という雑誌上で、そうした論述を試みるナイーブさというのは、いってみれば「野暮の骨頂」なのではなかろうか?(というより、私はこの文章がナイーブなミステリー読者によって「啓蒙的に」読まれることを怖れている)
 こうした懸念にもかかわらず、私が「ゲーデル問題」を扱うのは、ひとえにクイーンの作品自体がそうすることを強いるからである。私にいわせれば、柄谷行人はその「あやうさ」も含めて、クイーンに似ている。すなわち、四十年の長きにわたってエラリイ・クイーンという作家を突き動かした「形式化」のモメントは、「ゲーデル問題」そのものというより、そうした〈問題〉に取り憑かれざるをえなかった柄谷固有の思考が示す性格のなかにこそ、その精神的同胞を見出すというべきなのだ。したがって、この試論の主題は両者の思考の親縁性・類似性の確認であり、また野家啓一にならっていえば、クイーンが抱え込まざるをえなかった困難、あるいは彼らがそのような〈問題〉に逢着した必然性を、柄谷の理論をくぐり抜けることによって、私なりに理解し咀嚼していくことなのである。