ミステリの対立軸

本格ミステリ・ベスト10」のあとがきに、評論が貧しいとか、状況論が必要だとか威勢のいいことを書いてしまったが、よい評論の仕事もあるのだがという保留をいれ忘れていたのを後悔した。たとえば、巽さんの『論理の蜘蛛の巣の中で』とか、千街晶之氏の「時計仕掛けの非情」(『CRITICA』創刊号掲載)は、状況論としてもすぐれた仕事であると思うし、他にも色々あるだろう。総体的な評論の貧しさを歎きたい気持ちがあったので、ああいう書き方をしてしまったが、もう少しそのことを説明しようと試みてみよう。
 戦後の探偵小説の歴史を概観したときに、大きな揺れ動かしをもたらしたものとして、松本清張の『黒い手帖』所収の推理小説論と、綾辻行人十角館の殺人』内における、脱オジサンミステリ宣言みたいなものがあげられるだろう。両者は、排斥し選択するものにおいて、真っ向から対立している。この二つの宣言を大きなモメントとして、社会派ミステリ・ムーブメントと、いわゆる新本格派ムーブメントの隆盛がもたらされたとみられている。ただ、社会派は本来、本格派と対立項でなく、社会派作品にもすぐれた本格推理ものがあることを鑑みれば、この両派の対立は、社会派と本格派の対立とはみるべきではなく、「おじさん」派対「稚気」派とでも形容した方が適切だろう。
 時期的にこの間にくる、佐野洋都筑道夫の名探偵論争では、前者が名探偵不要論、後者が名探偵待望論を唱えた。この対立軸も、「おじさん」派対「稚気」派におよそあてはまるところがある。しかし、佐野と都筑の対立は、土着派対都会・洗練志向派あるいは、国内派対海外ミステリ志向派という軸もあるので、単純に松本清張綾辻行人の志向と同列に並べられないところがある。
 なにかムーブメントが勃興するときには、その仮想敵となるものがある場合が多い。社会派が勃興したときには、前時代的でおどろおどろしいと目された、戦前の怪奇探偵小説作風が目の敵にされた。綾辻宣言にあっては、リアリズム(「いわゆる」をつけた方がいいかも)志向の社会派推理小説がその標的となっている。その『十角館の殺人』からも今年で20年になる。『十角館』の脱・社会派宣言のようなものは、成果をおさめたし、収穫をもたらしたと思うが、それからかなりの時間がたった。いまミステリが盛り上がるためには、これらとはまた違った対立軸が要るように思われるのだが、それはしかとは輪郭を描かれていない。前述した論などに示唆的なことはいろいろと含まれてはいるのだけれども、これとつかめるところまでなかなか至らないのがもどかしく思うところの一つである。