批評のこと。(5)

 批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-22 - 研究会日乗」の続き。

 家でネットにつながらなくなりました。
 なんとしても日本の国会図書館OPACで調べものをしないと、玉突き状にいろんな〆切に遅れてしまうので、レンヌ通りのカフェからつないでます。
 そんなわけでもろもろ、ご返信遅れると思います。すみません、各位。

探偵小説のクリティカル・ターン この「批評のこと。」はまだ、原稿用紙10枚ぶんくらいはストックがあります。じつは去年のうちに書いていたものを切身にしてアップしているのです。ほんとうは、《CRITICA》2号の刊行とつずみ綾氏の研究会脱退を期に「日乗」に書き始めるつもりでしたが、いろいろあって延びて、結局『探偵小説のクリティカル・ターン』の笠井潔氏の跋文に後押しされた形になりました。
 というわけで以下の文も基本的には、去年の夏に書いたものを秋に手直ししたもの、に今回ちょっとだけ書き足しただけのものです。

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有栖川有栖氏の

評論は、小説の前には立たない、立てない*1

という発言を、一貫してネガティヴに取り上げてきましたが、しかし有栖川氏の同じ文章のなかのある一節に、私がひどく胸を打たれたという事実も、書いておかなければなりません。それはこの一節です。

ミステリマガジン 2006年 08月号 [雑誌]一羽の赤い鳥として、私は「そうは思わない」と囀る。「本格ミステリは根本精神なるものを纏っても纏わなくても、ただそれだけで無意味に美しい」と囀る。「それは白痴美である」と誹られようとも、なお囀ろう。*2

ほとんどすべての批評の腹の底には、
「××(批評の、全否定ではない言及対象)は、ただそれだけで無意味に美しい」
という気持があるんじゃないでしょうか。
 要は、そこからどう踏み出すか、なのだと思います。
(a) 「××が美しい理由はこれだ」と直截に言う批評。けれど、じつは美の理由を分析的かつコンスタティヴに語るのは、ほとんどのばあいにおいて困難ですから、たいていはものすごく簡単な理由(にならない説明)を挙げて、そこで議論を終りにしてしまう。
(b) 「××は美しい理由は××のこういうところが正しいからだ」と言う批評。真善美の一致を目指す立場ですが、往々にして
  (b-1) もう美しさなんて要らない、正しければいい、とまで言ってしまう(これはある意味すがすがしい)。
  (b-2) 特定の思想信条に都合のいい作品を先験的に「正しくて美しい」としてしまう。
  (b-3) 自分の美・快・趣味は矛盾をはらんだまま温存し、その自分の趣味に合った作品が「正しさ」の輪郭を形成する、と主張する。こういう批評にとって、「私が好きな作品」イコール「政治的に正しい作品」となりますから、自分が思う「敵・味方」の都合で思想信条を分節しているという景色です。
 のどれかになります。上の3例は、下にいくほど頻繁になります。
(c) 「××が美しいと思っちゃったけど、ほんとはどうなんだろう」と煮え切らない批評。その煮え切らなさをつきつめることで、なにか(ときには××にとって不都合な真実、あるいは××を美しいと思う自分にとって不都合な真実)を発見したり、しかしそれで××のことをやっぱり嫌いにはなれない複雑な気持を対象化したりすることもあります。
(d) …
(e) …
といろいろありましょう。批評というものが(b)しばしば独善的ドグマ的に見えたり、(c)なんだかぐだぐだと読みにくかったりするのは、この
「『××は、ただそれだけで無意味に美しい』を言っちゃ、そこで対話がおしまいになっちゃう」
という危機感、蛸壺のなかでの独語や仲間どうしの慰撫的同義反復を回避しようという、この「つぎの一歩」のせいなのです、きっと。
 だから有栖川氏の

本格ミステリは根本精神なるものを纏っても纏わなくても、ただそれだけで無意味に美しい」と囀る。「それは白痴美である」と誹られようとも、なお囀ろう。

という言葉が、多くの本格ミステリファンの気持を癒したのは当然です。20年に亙って一貫して当該ジャンルのトップランナーであり続けている人気作家が、批評という「他人の言葉」から守ってくれる絶縁体、耳栓をくれたわけですから。
 先述のとおり、有栖川さんのこの言葉は、当時すでに本格ミステリファンではなくなっていたこの私の胸をすら打ちました。なぜなら私もまた、自分の好きなものについて、
「××は、ただそれだけで無意味に美しい」
と囀ってみたいと思うことが、しばしばあるからです。
「××は、ただそれだけで無意味に美しい」
という気持こそが、人に批評を(私には雑文を)書かせるのでしょう。しかし書かれはじめた文章にいったん批評性なり思弁性なりが生じると(書き手の意志に反しても、これが発生するときはするものです)、その批評性・思弁性は、書き手の耳元でこう囁くのでした。
「『××は、ただそれだけで無意味に美しい』という発言は、ひょっとしたら美しくないのではないか?」
と。
 
(もうひとつの違和感は、有栖川氏をはじめとするジャンル愛好家が、××のところに特定の作品ではなく一ジャンル全体を代入してしまう気持が、私には理解できないということです。これについては《CRITICA》2号に載せた「少年探偵団は二度死ぬ。」で少し書きました)

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話は「批評のこと(2)」で引用した以下の発言に戻ります。

文学環境論集 東浩紀コレクションL 僕はむかしから、日本のオタク作品のすばらしさに対し、それについて語る言葉の貧困さに苛立ってきた。批評や評論というと、オタクには顔をしかめるひとが多い。「そもそも評論って必要なの?」と問うひとも多い。*3

ダヴィンチ 2007/07月号 私の守備範囲である推理小説の領域では、哲学的な用語で作品を分析したり、潜在する問題性を読み取ろうとする批評は、しばしば内容の当否以前に感情的な反発にさらされる。理由のひとつは、推理小説が明確な目的意識に沿って技巧的かつ自己完結的に書かれているという一種無邪気な信念だろう。トリックは読者を騙す目的で書かれたのだから、作者が意図していない「哲学的」意味をトリックに読み込むのは見当外れだ、という具合だ。これに自分の楽しみを哲学や思想といった偉そうな道具で解剖されたくないという心情が重なり合って頭ごなしの拒絶になってしまう。*4

〔上の巽発言を引用して〕
 二〇〇七年というこの時期にもなって、巽がまだこういう発言を続けなければならないことの意味を、真剣に捉えている評論家がどれだけいるのだろう?*5

 この点について、かつて山田詠美氏はこう発言しました。

文学問答〔…〕エンターテインメントの世界には本当の批評がないでしょう。紹介文しかない。しかも、全部誉めてる。本の悪口を書かれてその媒体に編集者が怒鳴り込んでいったという話を聞いたことがあるくらいですから。*6

エンタテインメントの世界に批評がないとは必ずしも思いませんし、批評不要説に近い立場の純文学作家についても、先に引用した笠井潔「批評をめぐる諸問題」でも少し触れられていますから、事態は山田発言ほど単純ではないと思います。とはいえ、いっぽうで唐沢俊一氏のこういうご発言を読むと、やっぱり山田発言は正しいってことなんでしょうか。

オタク論!唐沢 〔…〕僕は基本的に、エンターテインメントに対し、きちんとした評論の効果や存在意義が果たしてどれほどあるのだろうか、と疑問なんです。「エンターテインメントはヌルくてなんぼ」という意見もあるし〔…〕*7

そうか。〈ヌルくてなんぼ〉ということなら、エンタテインメントの世界で〈評論は、小説の前には立たない。立てな〉くて当り前かもしれません。

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 その話の続き。
 酷評や牽強付会な(に見える)読みや勘違いな(に見える)読みを、ほかならぬ作者である小説家が嫌ったり馬鹿にしたりするのは人情なので、そのことだけをを責める気は私にはあまりありません。批評というのが、しばしばおとな気ないものである以上、作品の評判を気にする業界人たる編集者が、それを煙たく思うのも、じゅうぶんアリでしょう。それをけしからんと一概には、私はいまのところ言えません。
 そうじゃなくて、東・巽・千街発言で上に挙げた部分で言われているのは、エンタテインメントやサブカルチャーの(作者ではなく)消費者が、批評という「他人の言葉」を嫌うということでした。
 上記東・巽・千街発言を読むかぎり、エンタテインメントの世界では、むしろ「読者(の全部ではないが)vs.批評家」という図式が目立つということです。
(笠井氏が挙げている、純文学方面で昨今話題になっている批評不要説をいったん棚上げします。私の乏しい情報では、純文学の世界はこの問題についてはあくまで「作者vs.批評家」という形になっていて、「読者」の多くは傍観しているのではないかと判断したためです。
 ただし、この図式が純文学の読者に皆無だとは言いません。たとえば、「好きな純文学作家に敵対する(あるいはその作家を煮え切らない態度で評する)論者」をなんとしてでも貶めたい、という態度で発言された言葉を、目にしたり小耳に挟んだりすることがあるからです。それらの言葉は、上述(c)タイプの批評の煮え切らなさとは正反対の、強いヒロイックな確信をもって発せられています。その確信のベースにある論理は、
「味方の敵は俺の敵」
という物騒で剣呑なものです。それを本気で信じることができたら、まるで日米開戦の報を祝賀ムードで迎えた1941年12月の日本のように、世界が白黒はっきりして、さぞ生きやすくなるでしょう。
 〈オタク〉(東発言)や〈ファンダム〉(千街発言)が批評不要論をもって批評家を退けてきた事情は、ひょっとしたら、エンタテインメント界が数十年単位で先行していただけかもしれません。少なくとも「読者vs.批評家」の図式が今後純文学方面でも顕著にならないという保証はないのです。)

 なぜエンタテインメントでは、東・巽・千街発言が指摘しているように、〈オタク〉や〈ファンダム〉に代表される愛好者が、批評不要論をもって批評家を退けようとするのでしょうか。

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 これについては、エンタテインメントは芸術ならぬ娯楽であるとか、〈ヌルくてなんぼ〉であるとか、エンタテインメントやサブカルチャーの消費者は純文学やアートよりも桁外れに多いとか、そういったしばしば未検証の事情をいくら並べても、説明にはならない気がします。
 ここで補助線のために、大塚英志氏の文学必要論を参照します。前もって言っておくと、大塚氏が、私が愛読している作家のそれこそ「敵」だったことがあるせいか、それともその事情とは無関係にか、氏の文章を読むと私は困惑してしまうことがたまにあります。しかし大塚氏のような「味方の敵」が必ずしも「俺の敵」ではないかもしれないと意識し、「味方の敵」という他人にこうやって困惑させられることによってしか、不勉強な私はなにかを学ぶことはできないのです。
サブカルチャー文学論 (朝日文庫) 大塚氏は、ウィニコットの言う移行対象という概念をときどき使います(この概念の意味については後述)。『サブカルチャー文学論』では、漫画・小説の作中人物とその愛の対象である他の登場人物・生物との関係について、この概念を使用し、愛の対象が移行対象である可能性に作者が意識的であるかどうか、というのが重要な問題である、と論じていたと記憶します(うろ覚えなので間違っていたらすみません)。
 大塚氏が移行対象概念を適用するのはしかし、作中人物と他人・物との関係についてだけではありません。消費者と消費物との関係についても適用しています。確かに文化コンテンツは、消費物ではあっても、消費者の愛の対象でもあります。
 長い引用ですし、私は大塚氏の意見に必ずしも全面賛成ではないので、それを念頭にお読みください。

物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 (角川oneテーマ21)〔…〕「文学」の役割は終わっていない、とぼくはずっと言ってきているのです。商業的に生き残っていく、資本主義のシステムの淘汰のなかで存続していく技術は、サブカルチャーの側であるぼくたちはかなりの熟練度で持っている。そして、ある部分までは相応に文学の代行もできる。マスのレベルで。しかしもう少しデリケートな対応は、文学や思想でなくてはできない。そういう領域があるはずです。そういったものを必要とする人間たちが最小限いる。
蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫) 学生たちによく言うのですが、近代小説を読むと主人公たちが「頭痛がする」とよく言っている。漱石だってずっと「頭が痛い」と言っているだろうと。なんで頭が痛いのかというと要は「私である」ことに悩んでいるからです。〔…〕『蒲団』のヒロイン、芳子なども「神経過敏で、頭脳が痛くって仕方がない時」に飲む「シューソカリ」という薬を持っています。頭痛薬が大量に売られるようになったのはあの時期ですね。〔…〕つまり、頭痛薬を飲むと「私であること」の問いがおさまってしまう人もいて、文学を読まなくてはおさまらない人間もいて、しかし「文学」を読んだりさらに書かなければおさまらない人間たちもいた。いってしまえば文学はシューソカリ、今で言ったらソラナックスやディプロメールといった向精神薬みたいなものです。〔…〕
 もちろん、サブカルチャーもそれに近い役割を果たしてきたのですが、ぼくはサブカルチャーはもうちょっとクッション的なもの、というか、不確定な「私」の一時的な避難所であって「私」を構築する強制力はないと思うのです。あるいはあってはならない、とも思います。同じような「私」を大量生産してはやはりまずいのです。
 〔…〕精神医学上の「移行対象」という概念があるのですが、つまり人が現実と折り合うときに、急には無理なので、「ライナスの毛布」を必要とする。それが「移行対象」です。毛布を抱えている限りにおいて、ライナスは「私」を保ち理性的でいられます。そういった緊急避難としてわれわれが生産するサブカルチャーがあるんだろうなと思います。ぼくの仕事場にフィギュアが山ほどあるのは一つはぼくにとっての「ライナスの毛布」としてなわけです、いわば。〔…〕
キノの旅〈11〉the Beautiful World (電撃文庫)バトル・ロワイアル 下   幻冬舎文庫 た 18-2 サブカルチャーはそういう〔近代における〕「移行対象」の領域として緊急避難的に作られたものに過ぎないという気がするわけです。その限りにおいては非常に実用性が高い。危機的状況にある女の子*8がすがろうとした時に、『バトル・ロワイアル』や『キノの旅』に行ったのはよくわかる。それらの作品が彼女の人を殺したい衝動の背中を押したというよりは、彼女が抱えた危機の大きさは、ライトノベルズでは回避できなかったと考えるべきです。
 〔…〕精神医学の学会で「おたく文化に触れていると統合失調症の発症を抑止しやすい」という発表が九〇年代にあったらしいですが、「移行対象」としてのおたく文化とはつまりそういうことだと思います。病の抑止はマスのレベルにおいてもできる。でもそこからさらに逸脱していく者に対して、それを救済することは資本主義システムのなかで出てきた大量生産の消費財としてまずなくてはならないサブカルチャーには担いきれない。セーフティネットとしてのサブカルチャーの機能する範囲と限界は見極めるべきです。そもそもサブカルチャーとは、人間を画一化して動員していくテクノロジー的な思考の産物に過ぎないからです。*9

 私の「近代」観は大塚氏とはいろいろと細かいところで違っているかもしれません。また精神医学や発達心理学(社会科学もそうですが)の用語を文化事象にたいして適用することにたいして、私はつねにためらっています。さらに、近代小説の登場人物が〈なんで頭が痛いのかというと要は「私である」ことに悩んでいるから〉といった解釈の当否を論じることは、私の手に余るのでここでは深追いしません。
 ここで抽出したいのは、大塚氏のなかに、つぎのようなイメージがあるということです(氏の表現をそのままもう一度使って再構成します)。

サブカルチャー=不確定な「私」の一時的な避難所、つまりクッション的な「ライナスの毛布」、マスのレベルにおける移行対象。「私」を構築する強制力はない。
  文学・思想=そこからさらに逸脱していく者(最小限いる)の「私であること」の問いにたいして、もう少しデリケートな対応をするための向精神薬

 ここにはなにかヒントがあるように思います。というか思いつきました。
 大塚氏は〈毛布〉と〈向精神薬〉とをそれぞれサブカルチャーと文学に割り振りました。エンタテインメント小説と呼ばれる娯楽コンテンツはサブカルチャーの重要な一部です。しかし、ジャンル小説のなかにも〈向精神薬〉のように働くのではないかと思わせられる物件があるはずです*10。また逆に上述の、「好きな純文学作家に敵対する論者」をなんとしてでも貶めたいという強いヒロイックな確信を持っている人や、あるいは「娯楽小説」よりもいわゆる(純)文学に分類されるコンテンツのほうに娯楽性を強く感じる私のような人間が、ひょっとしたら〈文学〉を〈ライナスの毛布〉にしているかもしれない。少なくともこれらの可能性を完全に否定し去ることはできません。
 となると、もとの比喩からどんどん遠ざかってしまうのが申し訳ないのですが、〈ライナスの毛布〉と〈向精神薬〉とを、棲息環境で分類されたコンテンツの種類としてではなく、人がコンテンツを愛好したり必要としたりするモードの謂いとして、とらえることはできないだろうか、ということなのです。……あ、いまいろんな人に鼻で笑われてるかも俺。
 こう考えると、同一のコンテンツでも、それを〈ライナスの毛布〉として抱えて親指をしゃぶってる人もいれば、それを〈向精神薬〉として食後に水といっしょに嚥下してしまう人もいて、どちらも消費行動としては「読書」とかゲームの「プレイ」である、ということになる。……ああああ、「なに言ってんだ」っていま俺間違いなく憫笑されてます。
更新期の文学最後の記憶 (角川文庫)(この考えを齎したもう一本の補助線が、どれか忘れましたがやはり大塚氏の著書のなかにあったと、いま気づきました(思い出しました。『更新期の文学』でした)。大塚氏が文化コンテンツをとらえるもうひとつの比喩、〈サプリメント〉です。〈サプリメント〉としてのコンテンツは、「泣ける本」「癒し本」といった効能によって求められる本に代表されます。思うに、スピリチュアル本からケータイ小説を経て『××力』『××する人、しない人』『××はなぜ××するのか』といった題の新書にいたるまで、〈サプリメント〉としてのフックがベストセラーの秘訣なのでしょうか。昨年、綾辻行人『最後の記憶』角川文庫版解説で、本格ミステリ読者について

 彼らは口々に「驚きたい」「驚かせろ」と言います。そのくせその驚きは、「過去の自分のミステリ体験で得た驚きの延長にあるものとして処理できるもの」、つまり「既知の驚き」でなければならない(叙述トリック作品ですら「騙しかたがずるい。後味悪い」「こんなの本格ミステリじゃない」と言う人がいるくらいです)。残念ながらそれはただ「驚き」という名のレッテルを貼る作業に過ぎません。

と書きましたが、これは、気がついたらホラー小説や本格ミステリにも〈サプリメント〉であることが求められるようになっていたからです。それはさておきまして。)
 〈ライナスの毛布〉的消費と〈向精神薬〉的消費とは、完全に排除しあうふたつの範疇なのか、二極のあいだにさまざまな段階があるのか、思いつきの悲しさで私にもよくわからないのですが、たぶん後者かと。そして、どちらが「偉い」か、という話ではないと、私は思います。
 エンタテインメント小説を含むサブカルチャーそれ自体が〈ライナスの毛布〉なのではない。サブカルチャーは消費者に〈ライナスの毛布〉を求めさせてしまいやすいというあくまで「傾向」の話、文学よりサブカルチャーのほうが、移行対象的な自分の一部とみなして消費する読者の行動にたいして親和性がある、という「度合い」の話かもしれないのです。
 これは、個人的な経験からも思いついたことです。自分が若いころ、風邪を引いたり落ち込んだりしたときに、ベッドに潜って、ふだん読んでる「文学」の本ではなく漫画ばかりを読み耽った経験とか(ま、ふだんも漫画、読んでたんですけど)。《CRITICA》創刊号に発表した「少年探偵団is dead.」にたいするミステリ愛好家各位の反応とか。また以前、私があるところであるジャンル(ミステリではありません)を相対視するような発言をしたら、私の不心得な発言のせいで、それを読んだそのジャンルを愛する人に呆れられ、こっぴどく叱られたことがありました。さらに、その発言に近い内容の文を雑誌に発表したら、その文を要約・援用した人のブログに、やはりそのジャンルを強く愛する人が激越なコメントを寄せて、エントリが炎上とはいわないまでも少々きな臭くなり(お気の毒に存じます)、その人が要約した拙文にたいする非難も起ってしまったことがありました。
 移行対象的な消費行動のばあい、批評家や私のような心ない雑文家の発言によって、不確定な「私」の一時的な避難所があげつらわれることが、消費者の「私」の安定のためにあまりよくないことなのではないかと思います。
容疑者Xの献身Yの悲劇―乱歩が選ぶ黄金時代ミステリーBEST10〈4〉 (集英社文庫) もうひとつ、先ほど、有栖川氏発言が「『Yの悲劇』は美しい」でもなければ「『容疑者Xの献身』は美しい」でもなく「本格ミステリは美しい」という形を取っていたことについて触れました。有栖川氏はたんに、笠井潔氏のジャンル論にたいしてジャンル論で応答した、というだけの話でしょう。だったら、なぜあれだけ多くの本格ミステリ愛好家がこの発言に癒されたのか。そこに移行対象的な消費・受容があったから、と考えることはできないか。つまり、私があるジャンルの愛好家にたいしてしたのと逆のことを、有栖川氏は本格ミステリ愛好家にたいしてしたのではないか。
 ジャンル小説がしばしば、同一パッケージの「レーベル」から、統一した商品イメージのもとにリリースされることと併せて、こういった「ジャンル」「レーベル」と移行対象的な消費行動との親和性も気になるところです。
 ……なんて、ぜんぶ適当な思いつきにすぎないんですけどね。
 繰り返しますが、これはどちらの消費行動が「偉い」か、という話ではありません。
2008-01-31 - 研究会日乗」に続きます。【id:chinobox

*1:有栖川有栖「赤い鳥の囀り」《ミステリマガジン》2006年8月号。

*2:同上。

*3:東浩紀「メタリアル・クリティーク」第10回(2005)『文学環境論集──東浩紀コレクションL journals』所収、講談社BOX、2007年。

*4:巽昌章東浩紀『文学環境論集──東浩紀コレクションL』評)《ダ・ヴィンチ》2007年7月号。

*5:千街晶之「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」《CRITICA》2号、2007年。

*6:河野多惠子×山田詠美「文壇とは何か?」(2002)中の山田発言、『文学問答』所収、文藝春秋、2007年。

*7:唐沢俊一×岡田斗司夫『オタク論!』中の唐沢発言(2004年収録部分)、創出版、2007年。

*8:2004年夏、佐世保でクラスメイトを殺害した小学生。

*9:大塚英志物語消滅論──キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』角川oneテーマ21、2004年。

*10:新装版 虚無への供物(下) (講談社文庫)ドグラ・マグラ (現代教養文庫 884 夢野久作傑作選 4)といって、ここでお決りのように『ドグラ・マグラ』や『虚無への供物』を出しても、「それって典型的なジャンル小説じゃないだろ」と言われそうですが。