批評のこと(8) 円堂都司昭に。

批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-05-15 - 研究会日乗」の続き。
早稲田文学 2号円堂都司昭がブログで、昨年の早稲田大学でのシンポジウム「文芸批評と小説あるいはメディアの現在から未来をめぐって」*1のことを書いています。→「2009-01-25」。
円堂は当日、客席にいました。そのときのことと、シンポジウムが収録された《早稲田文学》2号(2008年冬)をもとに、当該エントリを書いています。
まずこの点。

また、探偵小説研究会にとっては、同人誌「CRITICA」の発行が、「思想地図」、「PLANETS」、「en-taxi」にあたる意味を持っていたのだから、千野がそれに触れないのはアンフェアだろう

確かにそうでした。探偵小説研究会員の大半はともかく、自分については《CRITICA》がなければ現在の千野もない、というところがある(というのは大袈裟か)ので、《CRITICA》に触れなかったのは忘恩でもあり、また《CRITICA》がささやかなりにその一部を占めている「ミステリ批評」という場にたいして、不当でした。ごめんなさい。
 
続いて、「仕事」としての書評・批評・売文について。
活字化された自分の発言をあらためて読んでみて、言葉が足りなかったなと思うところがあります。

別にわたしたちがズルしているとか、書評家が美辞麗句を並べて「売らんかな」的なことを書いてるとはいわない。いわないけど、それを推奨されるような枠での仕事ばかり来るのは事実です。それが嫌でした。

この部分、「嫌です」ではなく〈嫌でした〉となっているのは、要するに
「いまはそういう仕事をほとんどしていないので、文章を楽しく書いています」
という話なのですが、ちゃんとそれを言ってませんね俺。
 
詳しくは円堂ブログの当該エントリをきちんと読んでほしいのですが、この言葉足らずが原因で、円堂に以下のようなことを書かせてしまいました。

 商業的な要請、プレッシャーのなかで、いろいろ調整しながら文筆業を営むことは、ただの「仕事」だ。「仕事する」ことを「奉仕させられている」といいかえるレトリックは、いくらでも可能だが、そのように拘束感を強調することは、次のような反応を招くばかりだろう。

〈次のような反応〉というのは円堂がリンクを張っている、「ゼロアカ道場」関係者らしき人?のブログの「何故この人はそんなにつまらなそうに文章を書いているのだろう」と題するエントリです。読んでみれば、当方の発言はどうも、客席にいらしたその若い批評家のかたに、
「千野はつまらなそうに文章を書いている」
という印象を与えてしまったらしい。なるほど。
先述のとおり、現在、基本的に楽しく文章を書いているので、聴衆にそれとまったく違った印象を与えたのは申しわけありません。
しかしこれ、だれに謝っているのか? どんなようすで文章を書いているように見えるか、ということは当人にとってすらどうでもよいと考えます。
 

ニアミステリのすすめ―新世紀の多角的読書ナビゲーション例えば、探偵小説研究会著『ニアミステリのすすめ』asin:4562041625いて、会を代表して版元と最初に話をしたのは私だ。同書は、「ミステリ」と銘打たれた企画であるからジャンルの「推奨」という面はあるし、内容は評論集であるけれど、商品として売りやすいようにブックガイド的なニュアンスも出しましょうかという打ち合わせもした。それを「奉仕させられている」と表現することもできるし、千野が「嫌でした」という類のことではあるだろう。

誤解を与えたのはこちらの非力ゆえですが、
〈内容は評論集であるけれど、商品として売りやすいようにブックガイド的なニュアンスも出しましょうかという打ち合わせ〉
なら、自分の文章の打ち合わせでもよくやるので、べつに厭ではありません。
 
それはそれとして、円堂の

 商業的な要請、プレッシャーのなかで、いろいろ調整しながら文筆業を営むことは、ただの「仕事」だ。

商業的な要請と書きたいことの調整をするのは、自分にとっては「仕事」のうちだし、それを楽しもうとするだけだ。

というのは完全に正しい。だから、シンポジウムの千野発言にたいして
「こいつ公の場でなに仕事の愚痴こぼしてんだ」
という印象を持った人がいたとしたら、それも間違ってはいないと思います。不快なら申しわけありません。
 
そんなもの仕事上当たり前の拘束だから、無闇に強調しすぎるな、という円堂は筋が通っています。円堂も書きながら、なんでこんな当たり前のことを千野はわかってないかな、と思ったことでしょう。
しかし当方、かつて、褒めること前提の仕事ばかり来てたときは、正直やっぱりうんざりしてました。
逆に言うと、円堂が〈ただの「仕事」〉を強調しすぎたらしすぎたで、困ったことになるのです。
ちゃんとそのへんのニュアンスが読める人は誤解しないだろうけど、世間のヴォリュームゾーンというのは、たとえば彼がリンク張った先のブログを書いているような純情素朴な層らしいから、そういう罪のない層にこんどは
「書評ってただの「仕事」で、それほど好きでもない本を心なく褒めたりするのか」
という印象を与えてしまうかもしれません。円堂について、
「何故この人はそんなに心にもない文章を書いているのだろう」
みたいな、これまた実情とズレた題のエントリが書かれてしまうかもしれないのです(円堂がそんな書き手でないことは、こちらとしてはわかっているつもりですが)。
「オファーと書きたいこととの調整をするのは仕事だからね、淡々といきましょうね」(繰り返しますがこれは間違ってない)
という書評より、
「褒める前提の仕事ばっか押しつけんなよ」
という書評のほうが読みたいですよ。
 
当日、客席にいる円堂(彼が客席にいるという確証はなかったが、彼のブログで前日のエントリ「2008-10-18」を読んでいたので、来ているかなと思って声をかけたら後ろのほうにいた)にネタをふってしまいました。これについて、円堂はこう書いています。

 掲載された彼の発言には、編集された部分がある。当日、会場にいた人は知っているが、探偵小説研究会は奉仕させられている云々の後にステージ上の千野は、「そうですよね、円堂都司昭さん!」と客席後方にいた私に向かって呼びかけたのだった。女子プロレス対抗戦華やかなりし頃のデンジャラス・クイーン北斗晶を思い出させるマイク・パフォーマンスであった。しかし、マイクも持たされぬまま即答を急かされた私は、反射神経がよろしくなくて、「一言ではいえない」と生声で返しただけだった。嗚呼。

圧倒的に不利な役割を押しつけてしまったことは、円堂に申しわけなく思います。ごめんなさいね。
因みにこのマイクパフォーマンスのくだりは、《早稲田文学》編集部から送られてきた文字起こしファイルの段階で、すでにカットされていました。
 

千野は、ミステリとはミステリという枠組みのなかでののみ驚きを求めるジャンルであり、真の驚きは望まれていないと批判する。それは絶妙な指摘である。と同時に、いったん枠組みを認めた後に意外性がやってくるというミステリの構図は、ノリ−ツッコミ/ノラセ−ツッコミという千野の書きぶりと相似形といえる。

え、そうなの? そのふたつはまったく違うと思っていたけれど…。
 

ミステリのジャンル批判を繰り返す千野に対し、本格ミステリ作家クラブから退会させてしまえ、と思っているクラブ員がいることは知っている。

うわ! 知らんかった! なんだよ、言ってくれよ早く!
俺ごとき影の薄い書き手が地味になにか書いたところで、だれにも認知されていないだろうと思っていたので、認知してくれているクラブ員がいると知ってむしろ嬉しい。
退会させてしまえ、という声があるなら、もちろんそれに従うことにやぶさかではありません。その声をぜひ直接聞きたいので、遠慮なく公開してください。
 
「謎」の解像度探偵小説研究会に入る前、円堂の「POSシステム上に出現した『J』 九〇年代ミステリに与えた清涼院流水インパクト」(2000、のち『「謎」の解像度〔レゾリューション〕 ウェブ時代の本格ミステリ』所収)を読んだとき、ミステリ批評家にはこんな考えかたの人もいるのか、だとしたら自分にもミステリ批評が読める、と心強く思ったものだが、その円堂の批評の対象に、「探偵小説研究会」それ自体も含まれることは、俺らはもっと意識したほうがいいぞ。

執筆できる環境を作るのも自己責任のうちだととらえているし、執筆しないメンバーは自分とは縁遠い人間だと考えている。

探偵小説研究会の他の会員も〕千野の発言にいいたいことがあるなら、なんか反応すればいい。

この苛立ちを抱えてる書き手の批評なら読みたいです。研究会会員のみなさん、基本的に大人すぎるか、さもなくばおとなしいか、だものなあ(《CRITICA》2号以降の「黒千街」のような取扱注意な劇物もあるけれど)。
 

探偵小説研究会は現在、名目上の会員数に対し、残念ながら、実際に執筆を活発に行っている人数が少ない。稼働率が低い。同会は、今はない創元推理評論賞の受賞者、佳作入選者を中心に結成されたが、賞をとった後、だんだん執筆が先細りになっているメンバーがけっこういる。精力的に書いている人と書いていない人の差が大きく開いているのだ。

それは、ミステリ読者のヴォリュームゾーンが
「批評なんかいらない」
と思っているからだよ。

どっちかというと〈書いている〉ほうに属するだろう俺の仕事は、《ミステリマガジン》連載を除いたらほとんど「非ミステリ」関連の文じゃん*2
エンドユーザの大半が必要としないものを、業界だって生産者に発注しないでしょ。毎年のように新人入れてたら、書き手が余るのは構造的な問題なんじゃないですか? もっとも、人によって仕事量があまりに偏っているのは事実なんだけど…。【id:chinobox

*1:十時間連続公開シンポジウム開催! - 早稲田文学編集室はてな出張所」。

*2:ところが2000年から2003年まで、ミステリを集中的に読んだことは、「非ミステリ」関連の文を書くうえでものすごく資するところがあったのだ。そのことを、ミステリ小説にたいしてとても感謝している。