批評のこと。(11)近什数点、あるいは「壁本」という言葉を使う人たちと、ムラの外の人の親切を無視する人たち。
批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2009-04-08 - 研究会日乗」の続き。
《野性時代》2009年5月号と「日経ビジネスオンライン」で、ウェブ上の読書感想文でよく見る「壁本」という言葉について書きました。
「壁本」という言葉を使って本をけなす人たちは、自分の読みかたの流儀に奉仕する奴隷状態でお気の毒、というお節介です。
かちんときたかたは騙されたと思って上記リンクをクリックしてくださいまし。
《ミステリマガジン》6月号では、少々古い話題ながら、仲俣暁生さんの村上貴史さん批判について書きました。
昨年、仲俣さんは「http://d.hatena.ne.jp/solar/20080312#p2」で、村上さんの米澤穂信『犬はどこだ』創元推理文庫版解説を批判し、
この文章は、「ミステリ」の内部からの言葉がいま、いかに無惨なものになっているかの証明である。
根本的な問題にはまったく触れていないし、触れる気もなければ能力もないのだろう。まあ、それを認めちゃうとミステリ専門の書評家なんて、みんな失業しちゃうもんなー。
と書きました。
しかし〈「ミステリ」の内部からの言葉が〔…〕無惨なものになっている〉のはいまにはじまった話ではなく、むしろ〈無惨〉であることを強要されているのか、いや、好き好んで〈無惨〉やってるのか、とにかく〈ミステリ専門の書評家〉は〈根本的な問題〉に触れたほうが〈失業〉しやすいのであります。だから仲俣さんの撃った弾は〈ミステリ専門の書評家〉をだれひとり傷つけていないのです。
とはいうものの、ムラの人たちが外の人の親切を完全に無視してしまったのは事実。仲俣さんの苛立ちは、私は心情的にはよーくわかるつもりです。詳しくは《ミステリマガジン》6月号をご覧いただきたい。
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