百鬼丸の瞳
映画『どろろ』を劇場鑑賞してきた。
どろろ役の柴咲コウはがんばっていた。でも、妻夫木聡の百鬼丸は演技が難しいだろうと思った。百鬼丸の目は義眼だ。つまり、見えていない。だから盲人の演技が要求される。しかし一方で、百鬼丸は超感覚的感受性で周囲を見てもいる。魔物の攻撃を「殺気!」と了解し、適切に体をかわすことができる。
この<見えていない/見えている>を目の演技で表現するのはかなり難しいのではないだろうか。見えているようで見えていない、という演技を目の表情に持たせようとすると、観客には役者が「ただぼんやりしている」「ぼおっとしている」ようにしか見えないのでは。
マンガ原作の、百鬼丸の義眼がぼとりと足もとに落ちるあの印象的なシーンをおぼえていないひとは、映画を観て、百鬼丸の目が義眼なのかどうか判断するのは難しいと思う。
映画や芝居でも、小説、マンガ、アニメでも受け手(鑑賞者)は作中人物に感情移入し、作中世界を体験する。そのときの作中人物とは一種のバーチャルスーツのようなもので、そこでは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の詳細な情報=描写が受け手に与えられなければならない。語り手=作者が「このひとは盲人です」と作中人物を紹介するだけでは、受け手がその情報にリアリティをかんじるのはむずかしい。
たとえば『暗くなるまで待って』という映画でオードリ・ヘップバーン演じるスージー・ヘンドリックスが記憶と配置のちがう椅子に足をぶつけ、焦点の合わない視線を宙にさまよわせるとき、観客であるわたしはひとつの感覚を眠らせる。スージーの「身」になって作中に感情移入するとき、わたしの「目」の前には闇がある。目の見えないスージーの指がガラスの嵌まっていない時計に触れ、長針と短針の角度を指先で確認し、時刻を知ろうとするときにも、わたしは時計の針を見ているのに、見ていない。
こういう感覚の撹乱に意識的だった劇作家のひとりとして、ウィリアム・シェークスピアを挙げることができるだろう。
マクベスが自分の殺した盟友バンクォーの亡霊を目にするとき、観客(あるいはわたしのように本でこの戯曲を読んだひと=読者)も亡霊を見る、と同時に、見ない。舞台上のほかの登場人物には、バンクォーの亡霊が見えていないからだ。しかし、ステージにはバンクォー役の役者がたしかに立っているのだから、ありありと実在を目にしているのだ。にもかかわらず、その役者の姿を見えないふりしている=見えない演技をしているマクベス以外の登場人物の視点によりそうと、目視している亡霊の役者を不可視のものと認識できる。
シェークスピアは<可視/不可視>の劇的演出をこのあと、逆の方向から繰り返す。
マクベス夫人が血で汚れた手を洗っている。だが、舞台上の女優の手には血などついていない。にもかかわらず、自分の手には「血の染み」がついており、何度洗っても落ちず、「血の臭い」がすると夫人がいうとき、彼女の手は赤く、汚れていると鑑賞者は思う。
バンクォーの亡霊のときは舞台上に実際に役者を立たせる。
マクベス夫人のときはその手が白いまま。
だが、観客は亡霊を、そして手の血を見る。そして、見ない。なんだか血飛沫零の文章みたい。(「超越推理小説・赫い月照」『赫い月照』谺健二・光文社文庫)。
この<可視/不可視>の構造は「盗まれた手紙」「見えない人」につなげられるかもしれないが、そこまでわたしの思考の線が伸びていかない。
原作のマンガ『どろろ』はシェークスピア劇、因果応報の説教節、ゴーストハンターもののジャンルミックスだと思うが、映画版では説教節とゴーストハンターストーリーが前面に出ており、シェークスピア色は希薄。
百鬼丸の演技にもその点が反映されている?