野兎の逃走/闘争

しばらく前に読んだ本だが、備忘録的に思いつきを記しておく。
桜庭一樹『GOSICK VI―ゴシック・仮面舞踏会の夜―』(富士見ミステリー文庫)を読んだ。『GOSICK V』がだいぶパワーダウンしたのでシリーズの行く末を危惧していたのだが(実に大きなお世話だが)、今回の新作は復調していて喜ばしい。復調、というか個人的にはシリーズ中でも長編第一作『GOSICK』に次ぐ出来栄えと感じる。そもそも、作中で言及される「野兎の逃走」のモチーフは、第一長編の変奏であり、シリーズの通しテーマでもあろう。ただ、登場時のヴィクトリカはまだまだ傍観者としての性格が強かったのに対し、巻を重ねるごとに、彼女自身が当事者として物語の前面に立つようになってきたと言えようか。
ところで、本書終盤でヴィクトリカが語る次の科白が気になった。

「古いものと、新しいもの。すべてがせめぎあい、未来は混沌としている。嵐は一度やってきてまた去ったが、遠からず二度目の嵐がやってくる予感もある。そう、風の匂いがするのだ。嵐の前の、きなくさい、湿った風の匂いだ。硝煙の入り混じる風。歓迎できぬ、おそろしい変化の気配が(中略)世界は再び混沌に満ちてきた。遠からず嵐はまたやってきて、その大きな変化の後、世界は再構成されることだろう。おおきな変化だ。世界はまるでべつのものにとって変わることだろう。そのとき、古くなり消えるもの、伝説に昇華されきらめくもの、新しく権威となる国、誰かの都合によって歪められる歴史――すべてのものに、さまざまなことが降りかかるはずだ」

今、手元に聖典(カノン)が見つからず、正確に対照することができないのだが、この言葉はコナン・ドイルの「最後の挨拶」におけるホームズの科白を念頭に置いたものではないだろうか。もちろん、ホームズが直面していたのが第一次大戦であるのに対して、ヴィクトリカが予言する「二度目の嵐」が第二次大戦を暗示しているという相違はある。さらに、ホームズの言葉が、作者たるドイルの愛国心の発露であったのに対し、桜庭はヴィクトリカをして別の途を歩ませようとしている。
そう、ヴィクトリカのワトスン役である少年、久城一弥は彼女の言葉にこう応じるのだ。「灰色狼の君がいうのだから、本当だろう(中略)だけどなにがあっても、信頼できる友達がそばにいたら大丈夫だよ」と。
そして何よりも最大の違いは、本書はヴィクトリカと一弥の「最後の挨拶」ではなく、二人の物語はこれからも続いてゆくという、そのことだ。