黄金の玉手箱

 「黄金週間」という、この名前。時間が「黄金」なのだから、表現として一風かわっている。似たような言い回しに「ゴールデン・タイム」というのもある。これも「時間に価値がある、光り輝くほど貴重である」というニュアンスなんだろうな。曜日の名前や旧月名なども時間に主観的な名前がついた例。

 時間と空間がとりあえず客観性をもつことが、ミステリには必要だ。その近代的な時空の一般性、客観性が担保されなければ、犯罪捜査が成立しないからである。

 たとえば、『源氏物語』にはこんなふしぎなところがある。

 「若紫」の巻で、病気になった光源氏は北山に行き、そこで明石の君の噂話を聞く。このとき、明石の君は18歳。源氏は17歳とされる。源氏はそこでちびっこの紫の上(10歳)をかいま見し、少女を何とかわがものにしようと思う。

 明石の君―「耳」/紫の上―「目」

 という二項対立が登場し、これはのちに

 明石の君―「楽器」(「松風」)/紫の上―「絵画」(「絵合」)

 と展開していき、興味深いけど、その話は割愛。

 8年後、みずから京を離れ、須磨・明石を訪れた源氏は、噂の明石の君と対面することになる。そのとき、源氏は25歳。だけど、明石の君はなぜか18歳。ちなみに紫の上は18歳。
 この「年齢をとらない明石の君」は昔から謎らしい。

 このような物語世界ではふつうのいわゆるアリバイトリックが成立しないだろう。

 また「幻」の巻では、紫の上の死に衝撃を受けた源氏が悲嘆に暮れたまま季節が移ろっていく描写が展開するが、彼がどこにいるのかがわからない。

 二条院だとする説と六条院だとする説があり、テキストからは決定不能とされる。

 このような物語世界ではふつうのいわゆる密室トリックが成立しないだろう。


 というわけで、ミステリはやっぱり近代的な物語なんだね、と落着しそうだが、ちょっと待った! こういう主観的な時間/空間感覚のふしぎはすでに古代の人間にも理解されており、その代表が浦島伝説だ、ということができる。
 浦島伝説は風土記に載っており、『源氏物語』より古い。
 竜宮に行った浦島の時間は玉手箱に封じ込められ、主観/相対的に短い時間が、玉手箱を空けることで客観/絶対的時間に合一される。これが結局は、アリバイ崩しということである。

 つまり、アリバイトリックを企む犯人は玉手箱をもっているのだ。その玉手箱のなかに窃盗した時間を隠しもっている。探偵役はその玉手箱を探し出し、蓋を開け、盗まれた時間をもくもくと立ち昇らせてやる。



 ……と論じるのは一方できわめて単純。「アリバイ」とは「現場不在証明」なんだから、時間的トリックというより、時空的トリックなんだよな。連休中にもう少し、あれこれ考えてみます。新装版 源氏物語(一) (講談社学術文庫)