冷蔵庫の中の幽霊

 と、いうことで……自炊を始めた――
 独り分をセコセコ作るので、どうしても食材が余る……余った食材に始末をつけようと別メニューを考え、新しい食材を買い足す……すると、それが、また余ったりする……そんなローテーションが、うまく回っているうちはいいのだが……何かの都合で取り残されてしまう食材が発生する。すると“それ”は冷蔵庫の中に頑固に居座り、そうなると、なんとなく手を付けにくくなり……見て見ぬ振りをしていると……幽霊のようになる。
 まだ、自炊を始めて2ヶ月だから、年季の入った幽霊は誕生していないけれど――先日、「カイワレ大根」を弔った。かなり長期にわたって青々と利用可能な装いを保っていたのだが、気がつくと、干からびてチリチリにミイラ化していたのだ。
 なんで、こんな話をするかというと――文章を書くときのネタの話に通じる、とても教訓的なエピソードだと思ったのだ。先日、探偵小説研究会の機関誌「CRITICA」2号用の原稿を書き上げたのだが、今まで書いたことの整理に汲々として、書ききれないことが多く残った。というか、うまく処理できない問題が色々はみ出した。それを、新しいメニューで処理できればいいのだけれど……
 例えば……近代文学史のようなものから切断されたかのような場所で生産される「小説」について、それを、どう扱ったらよいのか? みたいなことに関連して、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポスト・モダン2』

を手がかりにしようと考えたのだが……東のあまりにも潔いブッタ斬り方に、どうにも納得できず――同時期に読んだ、蓮實重彦の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』で展開されていた“近代文学”擁護のスタンスに心情的には惹かれるものの……しかし、それじゃ済まない状況になってきてるよなぁ……などと思い――以前、週刊書評の176回で取り上げた、大塚英志の『キャラクター小説の作り方』
キャラクター小説の作り方 (角川文庫)

キャラクター小説の作り方 (角川文庫)

を思い出して、ああしたアクロバティックな姿勢をとらざるをえないのかなぁ……と考えたり――柄谷行人が『近代文学の終り』
近代文学の終り―柄谷行人の現在

近代文学の終り―柄谷行人の現在

で“文学”を見捨てる時に、現代の小説は江戸期の「読み本」みたいになってしまったから……みたいなエクスキューズをしたけれども、今になって、それが身に沁みてきたり……しかし、そもそも小説は「読み本」だろう? そこに辛気臭い問題を集中させたのは、「批評」の都合だろう? 小説の本質ってのは「読み本」だったじゃない(昔っから)――みたいな所に退いて(つまり、柄谷が重要だと考えていた「近代文学史」をチャラにしたところから始めれば)何か、現状に接続する“批評的言説”を吐けるかなぁ……みたいな気分もあるのだが……つまり、結局、そこらへんを整理しきれずに……いわば、調理法を思いつけずに冷蔵庫に置いたままにしてしまったわけだ。
 なんで、こんな話をするかというと――このままだと、そこらへんの話は、確実にカイワレ大根化……ミイラ化してしまうわけで、それではいかん! 冷蔵庫の中身には常に気を配らねばならない! という自戒なわけで――そこらへんの話は、うまく整理(調理)できたら、「田中博ノート」の方にでも書こうと思っている(あっちも、全然更新してないしなぁ……)。
 そういえば、チャンドラーと村上春樹なんていう話も放ったらかしたままだし……
 そういえば、冷蔵庫の中にはアスパラガスが3本……