金魚の名前

 もう十五年くらい昔のことだが、実家を出て、賃貸ワンルームマンションで独り暮らしを始めた頃、まっさらな狭い空間に三十男の自意識が充満しているような気がして、それを中和するために、他の生き物がいた方がいいような気がして……「金魚でも飼おうかなぁ」と考えたことがあった。そのうちに、なんだか部屋が身体に馴染んできて、そんな考えも薄れていったのだが……
 去年の四月に、新しい2LDKのマンションに引っ越して、一年ほどたって落ち着いてみると、また、金魚が欲しくなった。
 前回のような「自意識」云々とは違うような気がする。近所に、横浜の丘陵から地下水が下って湧いている場所があって、そこはコンクリで囲われた小さな池になっており、たぶん子供たちが縁日の金魚すくいで採ってきた金魚を放したのだろう――沢山の赤い流線型が気持ちよさそうに泳いでいる。通勤の行き帰りに、それを眺めているうちに「可愛らしいなぁ」と柄にもなく思ってしまい、そんな思いが、独り暮らしを始めた頃の記憶に接続し……「金魚を飼おうかなぁ」という気持が盛り返してきたのだ。
 で……6月1日の日曜日――開港記念日(6月2日)に向けて、例年どおり横浜公園で「開港記念バザール」なるものをやっており、屋台が軒を連ねていて、良い天気だったし、そこへ出かけたら金魚すくいをやっていたので……つまり、金魚を手に入れたのだ。


 六月の真昼に金魚と帰る道
 すれ違う人たちにも得意気に金魚を見せびらかしたい気持


 金魚すくい屋のオジサンは三尾くれたのだが、一尾だけ飼うことにして、あとの二尾は、例の湧水の池に放した。
 残った一尾をパートナーとして、名前をつけようと考えて、“ニッキ―”とか“デラ”とかいうのを思いついたのだが……この金魚は雌なのか? 雄なのか?
 雄だったら、名前は“エラリー”とか“ペリー”かというと……そういうものではない。“ワトソン”とか“アーチイ”でもない。つまり、コンビの片割れみたいなのはシックリこない。“マーロウ”ならいいかなぁ……侘しい男同志の共感みたいなものが湧くような気がする。ただ、“マーロウ”だと、酔った勢いで、「飲めよ」と言いながら水にウイスキイとか注いでしまいそうかな気がする(昔、ベルフラワーの鉢に「酔って花が赤くなるか」という冗談の思いつきでウイスキイ注いで、枯らしてしまった前科がある)。
 洋モノの名前ばかり並べたが……この金魚は“和金”だ。と、なると……“紋次郎”なんてどうだ? うむ、なかなか良いな。“久作”とか“長太郎”というのも、なんか野暮ったくてイイような気がする――などと迷っていると……

 名前もつけないうちに 金魚が死んだ

 6月14日に、名無しの金魚は死んでしまったのだが、金魚のために買った睡蓮鉢だの金魚鉢だの水草だのは……どうするんだ?
 ということで、翌日、近所のペット屋さんへ行って金魚を買うことにした。水槽から適当に一尾すくって店のオバサンに渡す――30円。オバサンによれば「コメットの赤ちゃんだね。キレイになりますよ」とのこと。
 家に帰って、ネットで調べると、「コメット」というのは、アメリカの養殖場で、琉金とフナが交配してできた種類らしい。身体は和金というか、フナなんだけど、尾っぽは琉金みたいに長いのだそうだ。そう言われてみると、このあいだ死んじゃった“名無し”とは、ちょっと尾っぽが違う……
 そうなると、名前は……“コメットさん”“九重佑三子”“大場久美子”ということになりそうだが……きっと、日本中に“佑三子”“久美子”という金魚がわんさかいるんだろうなぁ――などと迷っているうちに……

 また、金魚が死んだ

 さすがに凹んで、ちゃんと飼い方を勉強してからでないと次の金魚に手は出せんなぁ――と思っていたのだが……暫くして、空家になったはずの睡蓮鉢に何やらツイツイと動くモノを見つけた。小針のようなそれは、どうやら金魚の稚魚らしい。実は、例の近所の湧水の池から、ホテイアオイを一つ失敬して睡蓮鉢に浮かべていたのだが、その根についていた卵が孵化したとしか考えられない。
 そして、また名前を考え始めたのだが……ある日、もう一尾の稚魚を見つけた。前の稚魚より遅れて孵化したのだろう、少し小さい。寝起きに、タバコと灰皿を持ってベランダに出て、一服しながら睡蓮鉢の中の二尾の姿を確認して出勤する……そんな日々を始めたわけだが、すぐに、心の中で「こっちが太郎、そっちは次郎」と呼んでいる自分に気づいた。その名前には何の思い入れもない。しかし、そう呼びならわしてしまったからには、この二尾は“太郎”と“次郎”なのだ。
 やはり、名前というのは、“これ”を“それ”と区別する認識の自然過程を反芻することによって固定する――そんなことを実感した。それが“太郎”“次郎”であったことについては、保守的日本人である私の文化的背景があるに違いないし、1号・2号とか、A・Bとかいう命名にならなかったことについては、色々と考えるべきことがあるが……ともかく、うちの金魚は“太郎”と“次郎”になってしまった。
 孵化から一月ほどたって、最初はボウフラみたいだった太郎も次郎も、ちゃんとした魚の形になり、体長も2cmくらいになり――生意気にも、世に名高い“金魚の糞”を引きずるくらいに成長した。まだ赤くならず、それこそフナみたいな灰色だが……休みの日には、睡蓮鉢から金魚鉢に移して、パソコンのデスクに置いて、眺めながら「可愛らしいなぁ」と柄にもなく思っている。