「本格ミステリの軒下で」の感想

最近、「押し入れで独り言」(http://d.hatena.ne.jp/mystery_YM/20080916/1221571654)というブログ内で、「CRITICA」3号の市川尚吾さんの論文「本格ミステリの軒下で」に関する議論が行われていた。

 市川さんは、江戸川乱歩の「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれてゆく経路の面白さを主眼とする文学である」という言葉を、探偵小説(本格ミステリ)の定義の「説明」として解釈している。「説明」と語ったのは、乱歩のこの言葉だと「これが本格ミステリだ」「これは本格ミステリではない」というはっきりしたルールにはならないからである。
「これは本格ミステリなの? どっちなの?」という作品があるからこそ、この論文は書かれている。

 一般の読者には「これが本格ミステリだ!」という「公的な定義」は不必要だと論は進んでいく。過去に読んだ作品に関しては定義の説明を使って「これは本格ミステリだ!」と語ることはできる。
 しかし、「本格ミステリを読みたい!」と手に取る場合、すでに「本格ミステリ」という言葉が定着しているのだから、「公的な定義」で選出された「本格ミステリ」を必要とする読者はいるだろう。
 と思っていたら、供給する側が「公的な定義」を決めてもいいんじゃないか、と話は進む。でも、決める側も結局は読者である。作者も自分の作品の読者である。読者に「公的な定義」が必要でないなら、供給側も読者なのだから、「公的な定義」は必要でなくなるのではないか、と私は思った。

「定義」と「説明」について、森下さんは、「市川氏は、定義とは「そうであるものと、そうでないものを二分するためのもの」であると思っている。ぼくは、定義とは「そのものの本質がなにかを明確にするためのもの」だと思っている、と。」と述べた。
 両者の意見は表現の違いであって、同じことを伝えているように感じる。

 「容疑者X論争」をはじめ、「本格ミステリの定義」に関する議論が活発になるということは、「何かしらの定義があると個々では思っている」ことが考えられる。もう少し遡ると「本格ミステリ・ベスト10」がある時点で、本格とそうじゃないものを分別することは可能になっている(でないと誰も投票できない)。

 なのに、個々の定義がズレてきていると市川さんも森下さんも感じている。定義というより、本格ミステリを読んで面白いと思う部分のズレだろう。そのズレを考える素材のひとつに、両者とも世代をあげている(市川さんは『容疑者Xの献身』の部分で団塊世代をピックアップ。森下さんは「血は異ならず」で三十代以下の人たちと話したときの印象を述べている)。

 世代で考える。私はR35。子供向けに翻訳された海外古典作品を一通り読んだ後、新本格が登場してきた世代。島田荘司作品を読んだ後、金田一少年が誕生した。「冬の時代」を伝聞でしか知らない。こんなにたくさん本格ミステリがあって読みきれないよーという状態にもなっていなかった。ある意味、幸せな世代なのかもしれない。

 そんな私は、本格ミステリの面白さとは、推理クイズではないかと思う。子供の頃、雑誌の付録についていた推理クイズブックが、R35の私の本格原点になる。

 なので、市川さんの語る「本格の丘」の「本格」を、「クイズを当てる楽しさ」とイメージしている。
 クイズは難しければ難しいほど解いていて楽しい。しかし、誰にも解けないクイズはクイズとは呼びがたいから丘の頂上に立てない。整合性がとれていなければそれは違うだろと突っ込みを入れられる。逆に、思いも寄らなかった正解だと、それだけ評価があがる。過去に出されたクイズとまったく同じクイズだった場合、パクりと言われるのも納得できる。

 ならば本格ミステリとは、「クイズのような小説」なのかと問われるかもしれない。極論でいえば、そうであってもいい。じゃあ、「クイズだけよくて小説部分はどうでもいいのか?」と聞かれたら、答えは「NO」。ただし、推理クイズを面白く演出するのが小説部分だと思っているけど。

 本格ミステリ推理小説だから、ズレが発生してしまうのではないだろうか。小説部分も定義(あるいは評価の対象)に含めたら、それこそ万人で異なるだろう。
 市川さんの語る、「コテコテの本格ミステリ」(因習に満ちた土地柄、呪われた一族の住む館、密室殺人、童謡に見立てた殺人、等々の反リアルな要素を含むミステリ)は、「コテコテの演出を用いた本格ミステリ」だと私は思っている。
 (この演出を用いた作品って、面白い作品が多い気がするなあ。)

 あと、1冊でも「本格ミステリ」を読んでいれば、「本格ミステリ」を語る資格はあると思う。いいや、「資格」じゃない。語ることは「可能」だと思う。