赤朽葉家というせかい

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

わたしたちは、その時代の人間としてしか生きられないのだろうか(『赤朽葉家の伝説』308頁)

桜庭一樹の新刊『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)を読んだ。
鳥取の旧家を舞台に三代にわたる女たちの人生を綴った物語であり、

  • 第一部 最後の神話の時代 一九五三年〜一九七五年 赤朽葉万葉
  • 第二部 巨と虚の時代 一九七九年〜一九九八年 赤朽葉毛毬
  • 第三部 殺人者 二〇〇〇年〜未来 赤朽葉瞳子

の三部構成をとっている。
本書を読んでいて大澤真幸による戦後の時代区分を思いだした。後に東浩紀笠井潔も著作で参照した「理想の時代」「虚構の時代」というあれである。大澤『現実の向こう』(春秋社)によれば、「理想の時代」は1945〜70年、「虚構の時代」はその後95年までとされ、本書の第一部、第二部とごく大雑把に平仄が合う。第一部の「最後の神話」とはたたらの民やサンカの伝統、万葉の未来視という超常的な能力を指している。それらの「神話」が終末を迎え「だんだんになったせかいを、人々は我先にとのぼり続け」(38頁)ることが「理想」となった時代が第一部である。余談だが、「理想の時代」「虚構の時代」という時代区分は、大澤が見田宗介の論文から借用したものだが、見田の場合は両者のあいだにもう一つ「夢の時代」という区分を設けている。そう考えると「You may say I'm a dreamer」と歌う「流行歌」をBGMとして第一部が締めくくられるのは、なかなか暗示的ではないか。
さて、「巨と虚の時代」と題された第二部は、文字どおり「虚構の時代」を描いている。毛毬がレディースの暴走族を組織して中国地方を制覇していく物語は、現実の80年代というよりも、どちらかといえば同時代のマンガの中の世界を見ているようでリアリティを欠いていよう(余談だが、毛毬の一生を読んでいて『スクールランブル』と『小説スパイラル2 鋼鉄番長の密室』を思いだしたが、これらは全然80年代マンガではないな)。しかし、作者はそのことに自覚的である。いわく「手負いの獣のような、血に飢えた、フィクションの空気とでも言うものをこの二人は背負っていた。それはこの時代を生きる少年少女たちの宿命であり、時代に選ばれた誰かが演じねばならぬ、青春の焦燥であった」(132頁)。あるいはまた「子供のフィクションの世界から追い出され、しかし大人にもなれず、中有をさまよう魂」(208頁)。第一部の万葉の物語と対比させるように、作者は毛毬の人生を実に戯画的に描いているように思える。
女たちの物語と時代を併走させる本書の記述は、ときとしてみごとなまでに評論的である。「留守番電話ってぇ新しいツールを通じて匿名性を得てだな」(155頁)、「進化する電話機能のアブない使い方」「そういう事象は全国的にゆっくり起こり始めてる」「過熱する受験戦争で鬱屈してる、おまえのいうヴァージン・ピンクたち」(156頁)。これらの台詞を発したのが、元暴走族のあんちゃんだとは、到底信じられない。
そして三代目の瞳子は、自分が産まれた1989年について次のように語る。

この一九八九年という年について後に聞かれると、わたしは宮崎事件の年ですと答えることにしている。(中略)そのほかにもオウム真理教の台頭など新興宗教の動きも目立つようになっていた。フィクションの時代に成長した者が大人になり、フィクションが現実に漏れ出すような、奇怪な犯罪が現れ始めていた。(199頁)

『虚構の時代の果て』(ちくま新書)の中で、大澤がオウム真理教の事件を「虚構の時代」の終焉を告げるものとして扱っていることを想起しよう。大澤によれば、虚構の時代が終わった後に到来したのは、「現実からの逃避」が、「現実への逃避」に転換してしまう時代であり、『現実の向こう』において大澤はそれを仮に「不可能性の時代」と名づけている。もっとも、第一部、第二部が「理想の時代」「虚構の時代」に対応したように、瞳子の物語が「不可能性の時代」に対応しているか否かは今ひとつ判然としない。それは、第三部のみ「〜の時代」と題されていない点にも表れていよう。このあたりはもう少し考えてみたいと思う。
で、最後に思いっきり余談だが、第三部のヒロイン“瞳子”が旧家の跡継ぎの一人娘という時点で、髪型ドリルというヴィジュアルが私の頭からこびりついて離れないのだが、いったい全体どうしたものか……。