ふたたび赤朽葉家をめぐって

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説』を読んで、本書の舞台となった紅緑村のモデルはどこだろうかとか、鉄砲薔薇やらぶくぷく茶とはいったい何だろうと気になっていた。しかしながら、四国ならまだしも(先日、四国観光検定なるものを受験したのだ)、瀬戸内海をはさんだ対岸の中国地方については当方はまったく土地勘がない……。と困っていたところ、2007-01-10 - 一本足の蛸で安眠練炭氏が懇切丁寧な解説を加えていた。
というわけで、当方としては心おきなく、まったく別の話題を書くとしよう。一昨日の雑記の続きである。
本書全編の語り部にして第三部の主人公、赤朽葉瞳子。実は曾祖母のタツは彼女を赤朽葉自由と名づけようとしていたという。後にこの事実を知った瞳子は「自由とはなにか。現代を生きるわたしたちにとって、それはいったいどういうことか」(201頁)とぐじぐじ悩み続ける。

 曾祖母のタツが、わたしに自由と名づけようとしていたのはなぜだったのだろうか。名前が運命を変えるのではなく、運命が名前を呼び寄せるとタツは信じていたという。それならわたしの未来には、自由をめぐる闘いがあるのだろうか。わたしはそれを得るのだろうか。しかし、これからの時代において、わたしたちの自由とはいったいなんだろう……。(306頁)

東浩紀大澤真幸の対談集『自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)』が、21世紀における自由のあり方について延々と対話を続けていたことをふと思い起こした。東によれば「匿名の自由」、大澤によれば「根源的偶有性」と呼ばれるそれは、かつての「言論の自由」「表現の自由」とは異なる曖昧模糊とした代物である。大澤は次のように語っている。

それは、言ってみれば無意識の自由です。それは、「何をする自由」「何である自由」であるとあらかじめ特定できない自由です。だから、潜在的に可能な選択肢の項目のなかに、書きこんでおくことができない自由です。もし奪われたとしても、何が奪われたとは言えないような自由です。強いて言えば、それは、無為である自由でしょう。フィルタリングを自分で設定しているときに、僕らは、具体的に、何が強制的に排除されたのか、ということを言うことができない。しかし、実は、そのとき排除されているものがあるのです。言ってみれば、「無」が排除されているのです。(『自由を考える』167頁)

はっきりした輪郭を結ばず、どうにも捉えどころのない二つの自由。この両者はどこかで繋がりあっているように感じられてならない。さらに言えば、赤朽葉家の居候である元編集者の蘇峰有が瞳子に語る「ファゴ」のエピソード(222頁)も、偶有性の議論に絡んできそうな気配なのだが、そこらへんの話は機会があればまた。