『麗しのシャーロットに捧ぐ』に捧ぐ

第6回富士見ヤングミステリー大賞佳作にして、ヴィクトリア朝風味な異世界を舞台にしたホラー・ミステリ。
富士ミスと思えぬ……というより、ライトノベルと思えぬほどに、複雑な構成を採用している。個人的には、受賞作よりも好み。
ただし、プロットの複雑さが十分な効果をあげているかというと、疑問符を付けざるをえない。物語の正しい構図が浮かびあがったときに、それがいかにして心地よい驚きにつながるかという点のツメが足りないと感じるのだ。もっとも、作者のあとがきを読むと「理解しやすさを重視したため、今回はそのコンセプトを薄めた改稿を行いました」云々と記されており、あるいは応募時の原稿の方が作品の狙いは明快であったのかもしれないと思った。【以下、ネタバレ反転】
作者は、応募当時のコンセプトは「たった一つの『異物』の侵入による世界の反転」だと語っている。以下は私の勝手な推測に過ぎないが、本書のオリジナル・コンセプトは次のようなものではなかったか。
各章の叙述の位置づけ(メタ/オブジェクト・レベルや時間的な先後関係)が明らかになった時点で、悪魔ヴァーテックが跳梁する「告白」の章は、登場人物の執筆した小説(=作中作)であることが判明する。よって、そこに登場する悪魔の存在もフィクションに過ぎず、本書はひとたび、超自然的存在の登場しないサイコサスペンスへと回収される。しかし「再序章 主人の帰還」と銘打たれたエピローグまで読むと、悪魔ヴァーテックは、ウィリアム・コートニイや管理人として作中現実の至るところに跋扈していたという真相が明らかになる。こうした構造を持つ本書において、「たった一つの『異物』の侵入による世界の反転」を演出するなら、「悪魔の実在」は終幕直前まで秘し、最後の一撃をもって真相を開示すべきだろう。しかし、それでは本書の内容を完全には理解できない読者がいるかもしれない。ゆえに「理解しやすさを重視」した改稿により、コートニイ=悪魔の事実を露骨に描写したのではないだろうか?