3パーセントの幸福

その1 「長門有希の100冊」のうち3冊の文庫解説を書いていた。
その2 絶賛売り切れ中「幻影城の時代」の全体に占める執筆率2,5パーセント余り。

 それはともかく。今日の話題は、その2のからみです。あの本に書かせていただいた「宿題を取りに行く」と題する小文の中で、権田萬治氏の『日本探偵作家論』に言及し、権田氏が、松本清張の出現後は戦前探偵小説のような作風が「不可能になった」と断言していると書きました。これは実は不正確で、「不可能になった」という表現は原文にはあらわれていません。該当部分の文章(講談社文庫版15頁)は、

戦後の民主化によって、それまで国民の目から隠されていたさまざまな権力犯罪が次第にあらわになり、松本清張の、いわゆる社会派推理小説の誕生によって、それまで深海の底で孤独な夢をむさぼっていた探偵作家たちの自閉的な反リアリズムの世界はついに現実的な基盤を失うに至ったが、それは、戦前の探偵小説の夢幻の世界そのものが絶対主義天皇制の抑圧と正反対の地点で相互に対応していた以上当然のことでもあるだろう。

となっているのです。戦前探偵小説を天皇制の抑圧構造と結び付けた上で、それが現実的基盤を失ったというのですから、結論としては「不可能になった」と言っているようなものですが、やはり、直接引用をして正確を期すべきでした。この場合大事なのは、探偵小説の可否といった結論ではなく、あくまで思考過程だからです。また、この本が、こうした大上段にふりかぶった史観を冒頭に置きながら、内実は、個々の作家の世界に踏み込み、懇切にその現代に伝えるべき魅力を追った一冊であることはさらに強調しておくべきでしょう。私事を言えば、葛山二郎を論じながら、彼のトリックに「美しき錯覚の詩的な演出」を見出した一節を読まなければ、今日の私はない。
 むろん、権田氏の述べたことに全面的に賛同するわけではありません。しかし、私があの小文で「宿題」と呼んだのは、要するに、過去の作品を眺め直し、議論の筋道を押えた上で、あらためて「探偵小説」の可能と不可能を考えてみるべきだということでした。探偵小説復活派とアンチ復活派なんていう分かり易すぎる対立図式の中に、この名著を押しこめるのは本意ではない。というわけで、機会があったら上の部分を直したいと思っています。

 何だか生々しい話題が続いてしまったので、今後しばらく、古典の世界に遊びたいと思います。次回は、以前別のところで試みた『宇治拾遺物語』下ネタ話超訳の続きからはじめましょう。