ヒューマニズムという温かな手

温かな手

温かな手

石持浅海の新刊短編集『温かな手』を読む。作中に特殊設定を持ちこむ芸風はあいかわらずで、本書の探偵役は、人間の生命力を吸収して生きている種族(外見は人間そのまま)。語り手がその人外と同居している人間(いわば家畜)。吸血(精)鬼テーマの作品といえるが、飽食の現代にあって、人間が摂取した余剰カロリーを吸い取ってくれる吸精鬼はむしろ人間にとって重宝な存在。二人の関係を「相利共生」と評するあたり、石持らしい飄々とした設定である。
ただし、本書の巻末に置かれた表題作「温かな手」が、帯の惹句にあるように「じんわり切ないラスト」といえるか否かは評価の割れるところだろう。
【※警告! 以下、本書の内容に触れる箇所は文字色を反転させます。】
本書の結末で、人外のギンちゃんは、ある女性から明示的な同意なしに(暗黙の同意はなされていると描写されている)彼女を安楽死させている。さらに、同居人であった畑さんの意思もお構いなしに、つがいでもあてがうかのようにパートナー候補を連れてくる。そこに、人間の側の主体性を見て取ることは難しい。それはまるで、ペットに対する飼い主の態度を思わせる。実際、表題作の直前に置かれた「子豚を連れて」では、もう一人の人外であるムーちゃんが同居人の北西さんを連れて「ペット同伴可能な」ペンションに泊まりにゆく。北西はペット扱いかよと邪推したのは私だけではあるまい。この短編には、子豚をペットに連れた女性が登場する。子豚はたしかにペットにもなるが、一般的にはやはり家畜のイメージが強いだろう。そしてムーちゃんはその女性に向かって、異種(豚)を子ども扱いするよりも、同種(主人)との関係を見つめなおすよう説く。この短編でもやはり、人間は、ムーちゃんの種族のペットであることが含意されているように感じる。
もちろん、飼い主とペットの関係にも「じんわりとした切なさ」が漂うことはあるだろう。しかし、人外にとって、人間はペットであると同時に食材でもあり、なおかつ、並のペットとは異なり外見上はまったく変わりがなく、言語によって自由に意思疎通さえできる。こうした異種族間の交感を作者として描写し、そこに読者として感慨を覚えるには、ある種SF的といってよいクールな想像力が必要とされると思うのだ。しかし、石持はそうした複雑な交感を、「ヒューマニズム」という出来合いの受容器官で無理やり解釈しようとしているように思う。だから、人外と人のあいだに交わされる感情の性質は、歪なフィルターを透過することで「じんわりとした切なさ」という不正確なかたちで表象されてしまう。
他の石持作品にも、これと似たようなところがあるように思う。考えてみれば、石持ミステリはいっそ完全な異世界を舞台に据えてしまえば、意外と違和感なく受容されるのではないか。本書の場合なら、慈悲深いローマ貴族と忠実な解放奴隷という主従関係として二人を描いたなら、驚くほどスムーズに咽喉を通るように感じる。あるいは吸血鬼らしく、伯爵様と使用人との関係でもよろしい。しかし、石持はあくまで現代社会と地続きの、あるいはどこか一点だけ歪んだ世界を舞台にミステリを紡ぐ。それがこの作者の真骨頂であり、そのゆえに困難な道行きなのだと思う。