批評のこと。(2)
批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-17 - 研究会日乗」の続き。きょうは、「批評不要論」の存在について。
僕はむかしから、日本のオタク作品のすばらしさに対し、それについて語る言葉の貧困さに苛立ってきた。批評や評論というと、オタクには顔をしかめるひとが多い。「そもそも評論って必要なの?」と問うひとも多い。そういう人々は、評論についてなにか勘違いをしている。*1
私の守備範囲である推理小説の領域では、哲学的な用語で作品を分析したり、潜在する問題性を読み取ろうとする批評は、しばしば内容の当否以前に感情的な反発にさらされる。理由のひとつは、推理小説が明確な目的意識に沿って技巧的かつ自己完結的に書かれているという一種無邪気な信念だろう。トリックは読者を騙す目的で書かれたのだから、作者が意図していない「哲学的」意味をトリックに読み込むのは見当外れだ、という具合だ。これに自分の楽しみを哲学や思想といった偉そうな道具で解剖されたくないという心情が重なり合って頭ごなしの拒絶になってしまう。*2
〔上の巽発言を引用して〕
二〇〇七年というこの時期にもなって、巽がまだこういう発言を続けなければならないことの意味を、真剣に捉えている評論家がどれだけいるのだろう?
私の見るところ、作家の中で巽が言うような「感情的な反発」「頭ごなしの拒絶」から無縁なのは自身も評論家的資質を持つ少数の人間だけだし、ファンダムの重鎮クラスともなるともっと保守的である。*3
私は老舗も含め、複数のミステリ系ファンダムに所属している。そういう場では、そもそも評論家という人種に対する評価自体があまり高いものではないのだが(あいつらに較べれば自分の方が……というプライドが高い人間が多いせいもあるだろう)、〔…〕*4
〔上の東発言の一部・巽発言・千街発言(第一の引用)の一部を引用して〕
「感情的反発」や「頭ごなしの拒絶」を、とりあえず「声なき声」としておこう。〔…〕「声なき声」は、当人が思いこんでいるのとは違って、かならずしもサイレント・マジョリティではない。正確にいえば、活字文化の公的な場では「サイレント」だが、決して読者の「マジョリティ」ではない。というのは、「声なき声」派の大多数が草の根教養主義者だからだ。
探偵小説でもSFでも、マンガでもアニメでも、その他もろもろのジャンルのそれぞれに草の根教養主義者はある程度の規模で存在する。その道一筋何年、何十年の経歴を誇る草の根教養主義者は、それぞれのジャンルを商業的に支えている一過的な、従って「無教養」な消費者大衆を密かに、あるいは公然と侮蔑している。東浩紀の「新世紀エヴァンゲリオン」論や「AIR」論に反撥するのは、何十万何百万という数の消費者大衆ではない。ようするにサイレント・マジョリティではなく、アニメ一筋や美少女ゲーム一筋の草の根教養主義者である。筆者のSF批評や探偵小説批評にかんしても、大筋で同じことがいえるだろう。
サイレント・マイノリティとしての草の根教養主義者が批評的言説に抱く反感には、語るに値するものを所有している自分なのに公的な言葉を語りえない、具体的にいえば活字文化に席を確保できない者のルサンチマンという面がある。*5
ところで有栖川有栖が、この問題とも関係することを書いている。
過日、探偵小説研究会に属する某氏*6が「評論映え」という一語を口にした時、私は「その言葉が好きではない」と言った。評論映えがする、しない。つまり、それについて語るとミステリについて新しい見方を提示できるかどうか、現在のシーンについて解説がしやすいかどうか、皮肉っぽく言うと筆者が利口に見えるかどうか、というのは彼らにとって大切だ。(略)無論それは、作者や作品の価値とは無関係な評者の都合にすぎない。(「赤い鳥の囀り」/「ミステリマガジン」二〇〇六年八月号)
〔…〕有栖川によれば、小説には「映え」る権利があるが、批評が「映え」るのを求めるのは僭越だ、身のほど知らずだという結論になる。〔…〕では、誰が「正しい」読み方を決定するのか。有栖川によれば、無論批評家でなく小説家である。さらにいえば、その小説の作者である。有栖川作品の解釈権は有栖川本人が排他的に独占している。この所有権は神聖不可侵であり、それを侵害するような批評家は盗人も同然というわけだ。なにしろ、有栖川によれば「評論は、小説の前には立たない。立てないのだから」。*7
書評は誰のためにあるのか。某ミステリー作家が自分のサイトで「書評は作家へのオマージュになっていればいい。創作の苦労を知っている同業者の批評以外、自分は耳を傾けないし、必要ともしていない」みたいな意見を発表していたけれど、それは傲慢というべき。〔…〕作家へのオマージュでしかない贈与行為は書評とはいえないんですよ、ミステリー作家のMさん。書評家はあなた方作家の顔色うかがいのために存在しているわけではない。*8
まとめ。
1. 〈草の根教養主義者〉は批評が嫌い?
2. ミステリ作家も批評が嫌い?
附加情報。
探偵小説界でいえば「ファンダムの重鎮クラス」(かつては「探偵小説の鬼」と称された)が、「声なき声」や草の根教養主義を体現してきた。第二次大戦前から「鬼たち」が跋扈していた探偵小説界と比較して、歴史の浅いマンガやアニメやゲームの世界でも似たような「重鎮クラス」はすでに権威を確立している。
「ファンダムの重鎮クラス」を丸山〔眞男〕のいわゆる亜インテリと串刺しにして批判したのが、探偵小説界では島田荘司だった。具体的には「威張りたがり」の権威主義と事大主義、「出る杭は打つ」という凡庸主義などとして徹底的に批判した。「こむずかしいことはお上の仕事、おらたち百姓は、自分が一番楽しいことができればそれでいいんだという日本人のこの習い性は、もうそろそろ卒業して先に進まな」(「『眩暈』が内包していたもの」/『本格ミステリー宣言II』所収)ければならないという島田の提案だが、先に引用した巽昌章や千街晶之の証言から判断する限り受け入れられた様子はない。*9
で……役割分担みたいな俗な話になる。自身を省みて、基本的に「ジャンルの歴史・教養主義」を担う立場じゃねぇよなぁ……と思っている。この業界には、マニアというか、それこそ“鬼”のような“ミステリ読み”がいて、彼らが蓄積しているジャンルに関する知識・教養は、到底、半端者の私の及ぶ所ではない。「歴史・教養主義的」路線は、そうした適任者たちにまかせよう。そこには生産的なものがあるはずだ。ジャンルヒエラルキーの秩序の混乱はジャンルの崩壊とイコールではないし、歴史・教養が担う役割の変容はそれらの無価値に帰結するわけではないし、そこからジャンル外の様々な事象へアプローチすることだって可能なはずだ。
で……おいらは、どうするのよ? ということだが、半端者は半端者らしく、この前も書いたように、初心に返ってジャンルの外に片足置き、そっちに重心をかけていこうと考えている。*10
どうやら〈草の根教養主義者〉は「鬼」と呼ばれていたようです。
附加情報2。
因みに〈草の根教養主義者〉およびその予備軍に好かれている批評(研究)家もいます。お名前は出しませんが、無教養な私もそのXさんの仕事が好きです。それはそれとして、
「批評家は信用できない──でもXだけは信用できる」
という、〈草の根教養主義者〉予備軍はけっこう見ますね。
「2008-01-21 - 研究会日乗」に続きます。【id:chinobox】
*1:東浩紀「メタリアル・クリティーク」第10回(2005)『文学環境論集──東浩紀コレクションL journals』所収、講談社BOX、2007年。
*2:巽昌章(東浩紀『文学環境論集──東浩紀コレクションL』評)《ダ・ヴィンチ》2007年7月号。
*3:千街晶之「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」《CRITICA》2号、2007年。
*4:同上。
*5:笠井潔「批評をめぐる諸問題──おわりに」限界小説研究会編『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)所収、2008年。
*6:千野註。「某氏」は帽子ではない。
*7:笠井前掲稿。
*8:豊崎由美「書評は誰のためのものか」1(2000)『どれだけ読めば、気がすむの?』所収、アスペクト、2007年。崎はほんとうは違う字ですが、環境によって化けることがあるので崎の字を使用。
*9:笠井前掲稿。
*10:「田中博ノート - 探偵小説研究会(仮)」(2006)。