批評のこと。(3)

 批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-19 - 研究会日乗」の続き。
 前回はこういうことでした。

1. 〈草の根教養主義者〉は批評が嫌い?
2. ミステリ作家も批評が嫌い?

 〈草の根教養主義者〉というのは、〈ファンダムの重鎮クラス〉〈探偵小説の鬼〉に代表されるものですが、そういう教養をすでに身につけたエリート読者だけではないと、私は思っています。
 まだそんなに、あるいはぜんぜん、教養(当該ジャンルの鑑賞体験・知識)を身につけてはいないけれど、これからどんどん精進して、いっぱしのミステリ(ジャズ、ロック、SF、漫画、純文学、映画、ゲーム、アニメ、クラシック音楽、アート…)オタクなりマニアなりになってみたい、と思うことができれば、だれでも〈草の根教養主義者〉なのだと思います。
 私は一昨年、《CRITICA》創刊号に出した「少年探偵団is dead. 赤毛のアンis dead.」(のち青土社から出した拙著に所収)で、教養主義のことを云々しましたが、教養自体は否定しません。というか、もちろん教養がある人が羨ましい。ミステリ談義やSF談義において教養と呼ばれているものが単なる「知識」であることが多い、ということを勘案しても、やっぱり知識のある人が羨ましい。
 教養(知識)自体と、教養(知識)至上主義とはもちろんべつものです。お金はだいじですが、お金自体と拝金主義とはべつものですから。

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 前回書いたように、批評はミステリ作家に蔑視され、サブカルチャーの消費者の一部(〈草の根教養主義者〉および予備軍)に嫌われているらしいです。
 作家側の反応について、いくつか思うことを書きますと、もしも有栖川有栖氏が言う、

ミステリマガジン 2006年 08月号 [雑誌]評論は、小説の前には立たない。立てないのだから。*1

ということが正しいとしたら、一昨年、二階堂黎人氏が指摘した以下の状況についても、容易に説明が可能になります。

 ここで言う「評論」とは、単発的な、短い評論原稿のことではない。一つの論を立て、それを立証するために全ページを費やした一冊丸ごとの評論の本や、一冊の評論集のことである。〔…〕
水面の星座 水底の宝石探偵小説研究会には20人近くの人間が属していながら、笠井潔氏を除いては、誰一人として笠井氏が書いたような「評論」の本を書いていないし、出してはいない。唯一、千街晶之氏が一冊の評論集『水面の星座 水底の宝石』を上梓したが、彼自身があとがきで書いているとおり、別に論の立ったものではなくて、複数の主題に沿って観察した事柄を並べたものにすぎなかった(つまり、笠井氏が行なってきたような体系的な意味合いの発見を含んでいなかったということ)。〔…〕
 結局のところ、一冊のまとまった「評論」さえ発表する者が皆無といって良い現在の本格評論シーンは、そのこと自体が自らの終焉を世に喧伝している。*2

 作家や編集者やほかならぬ批評家が、〈評論は、小説の前には立たない。立てない〉と思っているのなら、そんな、最初から小説の前に立つ気概のない、小説の附属品として書かれた文章なんか、いくら集めようが本にする意味はありません。
 そんな本、読みたい人いますか? 俺は遠慮しときます。

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 笠井潔氏も言うとおり、批評家には、いわゆる狭義の批評家(クリティック)としての側面と、〈ジャンルが要求する機能として、物書きビジネスに特化したコメンテイター〉としての側面とがあります。

探偵小説のクリティカル・ターン コメンテイターの仕事は商業出版と不可分のビジネスであり、読者に「読みたい」はずの本を紹介するところにある。作品Aを面白く読んだ読者なら、少し傾向が違うが作品Bも読んでみたらどうだろう、という類の助言も仕事のうちで、読者に作品Bの面白さ、読みどころを教示したりもする。〔…〕信頼できるコメンテイターの紹介を頼りに、筆者も未読の新刊書を手にとることはある。*3

と、笠井氏は〈コメント〉の意味を充分に認めたうえで、

としても、コメントと批評を同一視するわけにはいかない。

と書きます。また、以下のように

〔狭義の〕批評として書かれていてもクズがほとんどだし、形は書評でも批評的な文章が書かれうる

と、批評性の有無と文章の見かけ(文章発注の形式)とは必ずしも一致しないことを強調しています。
 批評家には宣伝文を書いてほしいと小説家が思う(思うとしたら)のは、それは人情なのでわかります。で、読者はどうなのか。
 「批評家は理屈など捏ねず、面白い本を紹介してればいい」
という意見はよく聞きます。では、
「これって所詮小説に寄生してるだけの、小説よりカーストの低い文章なんだよなー」
と批評家が最初から思って書いたような書評に「この小説を読め」と書いてあったとして、読者はそれを信用して本を読むかどうか決めているわけですか。本屋の店頭にある本の現物やウェブ書店の当該ページから得た自分の判断よりも、そんな小説のコバンザメみたいな文章のほうを信用して、当の小説を読むかどうか決めるとは、私の理解を超えた、たいへん勇気のある行動です。最初から負けるに決まっている賭けですね。
 それで読んだ本が期待はずれだったとしても、出来レースのカモになることを選択したのは自分なんだから、自分だったら恥かしくて「あの書評家は信用できない」なんて文句は言えません。

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 そもそも〈評論は、小説の前には立たない。立てない〉発言を含む、有栖川有栖氏の「赤い鳥の囀り」もまた〈評論〉として読まれるわけで(有栖川氏がそれを〈評論〉のつもりで書いたか「随筆」のつもりで書いたかとは無関係に)、だとすると「赤い鳥の囀り」という文も〈小説の前には立たない。立てない〉。そんな文が評論と小説のカースト関係について説いている。読者はそれを読んで納得していいんでしょうか。
 それとも、「小説家が書いた批評」は「小説を書かない人が書いた批評」よりカーストが上なんでしょうか。読者・編集者にとっての商品価値は上であることが多いかもしれませんが。かつて二階堂氏はこう書きました。

 また、今年〔2006年度〕の「本格ミステリ大賞」などにも、その点の問題性が明示されている。評論賞の候補に挙がった4人のうち、3人までが作家で(笠井潔北村薫山口雅也)、もう一人も専門的なミステリー評論家ではなかった。
 その前年(2005年度)においても、探偵小説研究会員の著作は一つも候補に挙がっていない。
 この悲惨な現状を、評論家たちは恥ずかしいと思わないのだろうか。*4

 ということですが、批評が単行本化されているかいないか、という話でしたら、商品価値の問題抜きでその話をしてもしょうがないと思うのです。こう書いたからといって、2006年度大賞候補となった〈笠井潔北村薫山口雅也〉の批評本は商品価値しかないタレント本だ、などと言うつもりは、もちろんありませんが。
 「2008-01-22 - 研究会日乗」に続きます。【id:chinobox

*1:有栖川有栖「赤い鳥の囀り」《ミステリマガジン》2006年8月号。

*2:二階堂黎人「本格評論の終焉」最終回(http://homepage1.nifty.com/NIKAIDOU/nikki-log/NI2006.htm)。

*3:笠井潔「批評をめぐる諸問題──おわりに」限界小説研究会編『探偵小説のクリティカル・ターン』(南雲堂)所収、2008年。

*4:二階堂前傾稿。