批評のこと。(4)

 批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-21 - 研究会日乗」の続き。
 小説家の事情はさておき、読者とか〈ファンダム〉とかウェブ書評について。
 まず、批評家は小説を批評しますが、小説家も批評を批評できる。だれにでも、批評の権利があります。
 小説家が批評を批評する例として、藤岡真氏の「偽善者としてのもの書き」という文の一部を挙げておきます。

大分以前のことだが、週刊文春に『赤塚不二夫のギャグゲリラ』というマンガが連載されていた。〔…〕その中に編集者を主人公としたマンガがあった。快男児「銀波七洋(ぎんなみしちよう)」を主人公とする冒険小説のフアンだった彼は、早速、その担当を志願するが、主人公の名前を「ぎんぱななひろ」と読み違え(そう思い込んでいた)てしまう。作家は黙って席を立つと、編集部に電話をかけ担当を代えるように要請する。「先生、そんなことわたしに直接おっしゃってください!」と懇願するが作家は無視、では近所の蕎麦屋で昼飯でもと誘うと、再び席を立ってしまう。呆然としていると、母親が現れ「あの店は、以前、きつねうどんに葱を載せないでと注文したのに葱を載せてきたので出入りしないことにしているのです」「だったら、葱をどかせばいいのでは」「もう葱の臭いが移ってしまったと」「細けえなあ」と編集者氏が呆れたところに作家が戻ってきて、初めて面と向かってものを言う。実はこの言葉を引用したいがために、長々と書いてきたのです。
「細かくて、嫌な奴だから小説が書けるのです!」
 いい台詞だなあ。その通りです。わたしは自分勝手で、喧嘩好きで、褒められれば喜び、貶されれば怒る人間です。そんな性格を変えようとも思わないし、他人からとやかく言われたくもない。以前ここで、わたしの作品の感想をブログにアップした若い主婦の「これではね〜(藁」という言葉遣い対して「ぶんなぐってやりたい」と書いたら、思い上りの、粘着の、嫌な奴のと散々扱き下ろされた。
「どんな批判も甘んじて受け、拙いという指摘は謙虚に受け取る」
 これが正しい作家の姿勢だと説く馬鹿もいて、本当に大きなお世話だと思いましたよ。
〔…〕
 わたしは「ちゃんと書いた小説」を「ちゃんと読めない馬鹿な読者」がいると思っているし、この考えを変えようとも思わない。「誤読」されても仕方ない書き方をしていたのであれば、そこのところを指摘して欲しい(むろん読者の側からすれば、そこまで親切にする必要はないということかも知れませんが)。そういうところで徹底的に議論したいのです。「これではね〜(藁」では、こちらとしても怒るほかしかないのです。わたしはもともとエンジニア志望だったので、作品を技術の結晶と思い込むきらいがあります。自分が設計した車を、ろくに運転も出来ない輩から、四の五の批判されたときに「黙って謙虚に受け止める」のが正しい姿勢だとは思えません。作家に限り、そうすべきだというなら、つまりは「偽善者になれ」ということですか。*1

この文は、有栖川有栖氏の〈評論は、小説の前には立たない。立てない〉よりも、「批評」として優れていると思いました。とはいえ、ことは両作家が批評をどう批評しているかの優劣比較にあるのではありません。
 ここで注目したいのは、素人はなにを言ってもよくて、作家は素人に反論できないと考えている人がいるということです。

だいたいプロの物書きが反論できない素人を弄るというのはどんなもんだろう

相手は反論する術もない素人です

の類の意見はときどき見ます(〈反論する術〉くらい、ブログでも匿名掲示板でもSNSでも、いくらでもあると思いますが)。
 つまり、ウェブで人を批判するのはOKという立場の人が、その発言が他媒体で揶揄されたとたん、
「ボクたち少年がウェブで無邪気に遊んでただけなのに、紙媒体でオトナに本気出して殴られた!!」
とガラスのハートが発火して盗んだバイクで走り出すという、よくあるケースです。
 ブログだろうが新聞雑誌だろうが、原稿料が発生しようがしまいが、書き手や批評対象が著名人だろうが無名人だろうが、人に見えるところで発言する以上は、批判されることは折込み済みのはず。
 これについては以前、自分のブログで書きましたが、読者のほうも、自分の読みが間違っていると思ったら反省すればいいし、やはり作家のほうが間違っていると思えばさらに反論すればいい。私も多くの作者に馬鹿読者だと思われていることでしょう。
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 ウェブが介在しなくても、共通点のあるできごとは起ります。以下は森下霧街氏のブログより「風の証言 - 押入れで独り言」(面倒でも、コメントまでお読みいただきたい)。

仲間内で、自分たちの金で発行している同人誌では、誰はばかることなく、好き勝手に作品を評してきた。そうした特定少数のための同人誌に対して、プロの作家が文句をつけるのは、程度が知れる。

の部分には、以下のような註がついています。

この部分は、最初「そうした同人誌に対して、プロの作家が文句をつけるのは、筋違いというものである。」と書いたが、ある方の指摘で自分の認識不足であると判断し、修正した。

 じつは、このエントリの初稿が出た数日後、この話題について私は偶然、森下氏と某所でやりとりをしました。当時を知らない若輩者(といってもいいオッサンですが)の私が勝手なことを書くのにたいし、森下氏はきわめて紳士的に対応してくださいました。改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 そのときに書いたことをまとめますと、以下のようになります。
1. 当時どういうことがあったのか、私はよく知りませんし、コメント欄で論難された森下さんには、お気の毒なことと存じます。また、日本にいなくて本を読んでいないので、綾辻氏の文がどんな感じなのかはわからない状態でこれを書いています*2
2. 当時の若い作家たちから、勝手に「煙たい権威」あつかいされたとしたら、それはファンダムにとっても思いがけない災難だったかもしれません。しかし文章を公表するとは、そういうものではないでしょうか。デビューしたての若い作家たちには、玄人筋の同人誌での批評は、いまのウェブ上の一般読者の読書感想文よりもずっと怖いものだったかもしれませんし、そうしたファンダム(大学のミステリ研究会を含む)での論戦や実作にこそ、デビュー前の彼らは育てられてきたのですから。
 「権威」なり「圧迫感」なりは、外の人が勝手に付与してくるものでもあるので、デビュー当時の若かった新本格作家たちが、森下さんたち熱心なファンダムの人たちを、勝手に恐れたりして権威づけてしまったとも考えられます。権威づけ、というのは必ずしもプラス方向だけでなく、反感なり恐れなりからでも起ります。なにしろ当時の新本格作家たちも、大学ミステリ研というファンダムの出身者、つまりアマチュアミステリ論壇の内部にいた(ことがあった)から、単純に考えて、森下さんたちは自分たちの同輩・先輩のようなものだったのではないでしょうか。恐れたり、煙たく感じたりするなというほうが難しい。
3. さらに、インターネットが普及している現在と違って、新本格初期にはまだ、
・ 商業媒体=公的
・非商業媒体=私的
という感じが強かったのかもしれません。しかしこれはまったくの推測なのですが、大正時代の純文学だって、新思潮という東大系同人誌に載ったものにたいする批判が、新聞に載ることだってあったかもしれない。要するにプロとアマの違いは、当事者がそれを言い立てたときに発生するものです。批判する側もされる側もプロアマの違いを言い立てないばあい、そこにプロアマの違いはありません。俺に殴らせろ、でもお前は金貰って有名だから殴り返すな、というのは無茶な話です。
 批判される覚悟のあるものだけが、文章を公表できます。人に批判される覚悟のない批判は、有効な批判ではない。「他人(プロアマ不問)が撃ってこない安全圏」にいたいのなら、文章を公表しないのが一番です。だれでも閲覧できるブログと、仲間内の会報とでは、公開の度合い・アクセスのしやすさがまったく違うので、これは当時のファンダムにたいして少々酷な物言いかもしれませんが、同人誌であっても会報であっても、公表されたものは基本的に公的な発言です。
4. そして、プロはプロで、
〈だいたいプロの物書きが反論できない素人を弄るというのはどんなもんだろう〉
〈相手は反論する術もない素人です〉
と言われる覚悟をして、つまり「プロの癖に一般人の発言を論うとは、器が小さい」と評判を落すリスクをおりこんで批判をしているのです。
 以上4点から私は以下のように判断しました。

森下氏 :〈同人誌に対して、プロの作家が文句をつけるのは、筋違いというものである〉
アレクセイ氏 :〈「アマチュア性」をことさらに強調することで、自分たちの「公的発言」を自ら「免責」してみせるのと、軌を一にする(恥知らずかつ臆面のない)強弁だと言えるでしょう〉

この部分にかんしては、どう見てもアレクセイ氏のほうが正しい。
ファンダムや同人活動、あるいはウェブ批評について。
「無料で、ときには身銭を切ってまで批評を公表しようとする」
「その批評が知名人によって批評されないことを求める」
というふたつの志向がひとりの頭のなかで同居することがなにゆえ可能なのか、私にはとんとわからないのです。
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 「批判される覚悟のあるものだけが、文章を公表できる」ということは、文章を公表するものがプロアマ問わずまず呑んでおく要諦、それなしで文章を公表しえない覚悟であるなどと、あまりにも初歩的でわざわざ書くのも気が引けるのですが、
「素人の書きものをプロは批評するな」
とか、あるいは
「批評というものはすべて、小説の前に立てない」
といったような物言いを見ると、ファンダムにもミステリ作家にも共通して見られる、その「批評されることにたいする過度の忌避? 蔑視? 恐怖?」は、いったいどこからくるのだろうと不思議に思い、書かずもがなのことを書いたしまった次第です。
 初刷5,000部の「プロ」もいれば、そのプロより遥かに有名な「アマチュア」の人気ブロガーもいます。大手事務所に所属している「アイドル」よりもずっと人気のある「ネットアイドル」だって、ひょっとしたらいることでしょう。
 アイドルは写真集を出します。私たちはそれをダシに、「こんなブスの写真集買うやつの気が知れん」などとブログに書くことができる。
 いっぽうで、「ネットアイドル」は芸能事務所に所属しているわけでもないのに、顔を晒し、アイドル写真的な目線をくれたり演出をしたりした写真をウェブにアップしている。
 地上波TVのプライムタイムで、あびる優あたりが特定のネットアイドルについて
「でもこの人……見た目微妙でしょ?」
なんてことを言ってしまったとしたら、もしかすると、世間は非難囂囂かもしれない。しかし、ネットアイドルの人は、最初からそれくらいのこと言われる覚悟をしてるんじゃないでしょうか*3
 批評にたいする反論は、藤岡氏も言うとおり、いくらでもすればいいのですし。
 「2008-01-24 - 研究会日乗」に続きます。【id:chinobox

*1:Protect Smartphone」の「偽善者としてのもの書き(2006/09/27)」。URLの最後の数字は日が経つと増えていくので、ページが違っていたら.htmlの前の数字を大きくしてみてください。

*2:個人的には、作者が感情をポロリしてしまうのも芸のうちだと思うので、言いかたが芸になっていれば、それもアリではないかと思います。

*3:あくまで希望込みの推測ですが。