批評のこと。(6)

 批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2008-01-24 - 研究会日乗」の続き。
 
 前回のまとめ。

物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」 (角川oneテーマ21)大塚英志物語消滅論』での「サブカルチャー移行対象説(文学思想向精神薬説)」(大塚氏の表現をそのまま使って千野が再構成したもの)。

サブカルチャー=不確定な「私」の一時的な避難所、つまりクッション的な「ライナスの毛布」、マスのレベルにおける移行対象。「私」を構築する強制力はない。
・  文学・思想=そこからさらに逸脱していく者(最小限いる)の「私であること」の問いにたいして、もう少しデリケートな対応をするための向精神薬

それを参考にして千野が勝手に考えたコンテンツ消費行動の二極(思いつき)。作品の分類ではなく消費行動の分類です。

・移行対象的消費=コンテンツに「ライナスの毛布」を求める
向精神薬的消費=コンテンツに「ソラナックス」を求める

 〈サブカルチャー〉に分類される作品を向精神薬的に消費したり、逆に〈文学〉に分類される作品を移行対象的に消費したりするケースもありえます。ただし、〈サブカルチャー〉に分類される作品が移行対象的消費と親和性を持ちうるとすしたら、いままで何度か引用した、東浩紀氏の指摘にある〈オタク〉の批評嫌い*1、あるいは巽昌章千街晶之氏の指摘にある〈ファンダム〉の批評嫌い*2の原因が、ここにあるのかもしれません。もちろんこれは未検証の、仮説以前の「個人的印象」です。
 繰り返しますが、これはどちらの消費行動が「偉い」か、という話ではありません。
 
 ここまでお読みいただいたかたにはお判りのとおり、私の関心は、作品やその作者が他人の批評言語に耐えうるかどうかではなく、読者(消費者)が他人の批評言語に耐えるかどうか、ということにあります。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 ところで、ここのところ私が引用している文のなかで、東浩紀氏はこのようにも書いています。

文学環境論集 東浩紀コレクションLNEON GENESIS EVANGELION DVD-BOX (仮)風の谷のナウシカ DVD コレクターズBOX評論が書かれ、読まれるのは、もともとそれ自体が楽しい行為だからだ。実際にオタクの外では、批評のほうが作品よりおもしろいと言われることも珍しくない。たとえば、蓮實重彦の映画批評は映画よりも、柄谷行人の文芸批評は小説よりもおもしろいと言われることがある(それはそれで問題のある状況だが)。しかし、『ナウシカ』よりもおもしろいナウシカ論、『エヴァ』よりもおもしろいエヴァ論、なるものを想像できるだろうか。想像できないとしたら、それこそがオタク評論の貧しさを物語っている。
 〔…〕評論が貧しいということは、作品を長期的に吟味し、語り継いでいく場そのものが貧しいということなのだ(これは僕の推測だが、オタクまわりでは二次創作がその貧しさを埋めているのではないか)。

 この、おおむね同意できる文章に便乗して、私がなにか書くことがあるとしたら、以下の二点でしょうか。

1. 映画や小説よりもおもしろいと言われる映画批評・文芸批評があったとしても、それはそれでなんの問題もない状況に思える。
2. 蓮實氏や柄谷氏の話題を出しても遠い感じがするので、一読者としての私の個人的な体験を書きますと、探偵小説研究会に入る前に読んだ、研究会員による批評のいくつかは、論じられているミステリ小説自体よりもはるかにおもしろかった。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

2008-01-22 - 研究会日乗」で触れた、綾辻行人十角館の殺人』新装改訂版あとがきを、私もやっと読むことができました。読む前に私は、

個人的には、作者が感情をポロリしてしまうのも芸のうちだと思うので、言いかたが芸になっていれば、それもアリではないかと思います。

などと書いたのですが、じっさいに読んでみたら、とくに感情的ではない書きぶりでした。

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫) かつてあったとされる、いわゆる「新本格バッシング」については、ここであまり書く気はない。僕自身は実を云うと、特にデビュー当初はさほどあからさまな「バッシング」を受けた記憶がなかったりもするので(単に気づかなかっただけだったのかもしれないが)。しかしながら、あのあと陸続と世に出た「本格派の新人」ほぼ全般に対して、解説文中で鮎川先生が指摘されているように「妙に風当たりがつよい」読者が存在したのは事実だろう。
 その急先鋒とも云えるのが、すでに活動を休止した某探偵小説愛好会の一部メンバーで、同会の会誌で展開される本格系の若手作家への批判には非常に手厳しいものがあった。ことに、年々の各新人賞受賞作を並べて「斬る!」と題された、毎年恒例の座談会では、すでにプロの評論家として仕事をしていた若干名も加わりながら、かなり激烈な「新人叩き」が行なわれていた。
 ゆえあって僕も、たまたまある年のその座談会を読む機会があったのだけれど、そこでは確か、その年の某新人賞の受賞者が名指しでこきおろされ、「こいつが道で倒れて死にかけていても助けてやらない」だの、「こんな奴を世に出すような賞はさっさとやめてしまえ」だのと、さんざんな罵詈雑言が飛び交っていた。そしてなおかつ、何を考えたものか、かの会ではそのような記事が掲載された会誌を毎号、鮎川先生の許にも送付していたと聞く。こきおろしの対象となる新人賞の中には、始まってまもない東京創元社主催の「鮎川哲也賞」も含まれていた。

そうなのかー。これについては、この愛好会のもと会員である森下霧街氏が「風の証言 - 押入れで独り言」で述べられているとおり、

当時は鮎川哲也は特別会員だったから、綾辻の言うように、会報は送っていたはずだ。座談会だから特別に送ったのではなく、毎月送っていたのである。

ということのようです。
 ちなみに〈探偵小説の鬼〉たちと鮎川哲也との関係について、傍目からはどう見えるかを知るのに好適な文章をたまたま見ました。末永昭二氏が《アスペクト》に連載している『「垣の外」の文学』第10回「電気系文学(1)──鮎川哲也真空管アンプ」です。末永氏は金田幸之助による鮎川哲也インタヴュー「オーディオマニア訪問──ひとり静かにオペラを愛聴する」(《電波技術》1972年3月号)を紹介し、〈あまり自己を語らない鮎川の私生活が垣間見える〉と書いています。

この種の記事では原稿またはゲラの段階でインタビューイに見せて了解を得ることが多く、その意に沿わない部分はカットされたり書き直されたりするが、この記事には鮎川の意向は反映されていない*3。つまり、インタビュアーの聞き間違いや勘違いの危険はあるにせよ、生の声に近いはずだ。こういう生の声に作家のホンネが表れることは少なくない。
 このような無防備な記事が掲載されたのは、これが「推理小説の鬼たち」が目を光らせている雑誌ではなく、小説と離れたエレクトロニクス誌だったからではないか。

この末永氏のコメントには、けっこう鋭いものがあると思うのですが。【id:chinobox

*1:文学環境論集 東浩紀コレクションL〈僕はむかしから、日本のオタク作品のすばらしさに対し、それについて語る言葉の貧困さに苛立ってきた。批評や評論というと、オタクには顔をしかめるひとが多い。「そもそも評論って必要なの?」と問うひとも多い〉(東浩紀「メタリアル・クリティーク」第10回(2005)『文学環境論集──東浩紀コレクションL journals』所収、講談社BOX、2007年)。

*2:ダヴィンチ 2007/07月号〈私の守備範囲である推理小説の領域では、哲学的な用語で作品を分析したり、潜在する問題性を読み取ろうとする批評は、しばしば内容の当否以前に感情的な反発にさらされる。理由のひとつは、推理小説が明確な目的意識に沿って技巧的かつ自己完結的に書かれているという一種無邪気な信念だろう。トリックは読者を騙す目的で書かれたのだから、作者が意図していない「哲学的」意味をトリックに読み込むのは見当外れだ、という具合だ。これに自分の楽しみを哲学や思想といった偉そうな道具で解剖されたくないという心情が重なり合って頭ごなしの拒絶になってしまう〉(巽昌章東浩紀『文学環境論集──東浩紀コレクションL』評)《ダ・ヴィンチ》2007年7月号)。〈〔この巽発言を引用して〕二〇〇七年というこの時期にもなって、巽がまだこういう発言を続けなければならないことの意味を、真剣に捉えている評論家がどれだけいるのだろう?(千街晶之「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」《CRITICA》2号、2007年)。〉

*3:千野註。鮎川が発言中に名を挙げたミステリ作家の名前を、ミステリに疎いらしきインタヴュアーが間違えたまま掲載されたという理由で。