『K-20』の時代
先日、映画『K-20 怪人二十面相・伝』を見てきた。
1949年――架空都市《帝都》。
帝国陸海軍と、アメリカ、イギリス軍との平和条約の締結が合意に達し、
第二次世界大戦が回避された世界。
19世紀から続く華族制度により、極端な格差社会が生まれ、
帝都の富の9割は、ごく一部の特権階級に集中していた。
レトロスペクティブな戦前風景と、格差社会という現代性を繋げて捏造された帝都が、この作品の舞台である。怪人二十面相の存在は、かかる階級社会へのアンチテーゼとして設定されている。しかし、ここまで極端な架空歴史を組み上げたにもかかわらず、物語の落ち着きどころが、「貧しくても明日がある」という『ALWAYS 三丁目の夕日』的な楽観性と、資本家の慈善による所得再配分というのは、どうなんだろうか? 娯楽映画なのだから、そのあたりを突き詰めても仕方ないという意見もあるかもしれないが、エンターテインメントであればこそ、過酷な設定を跳ね返すだけのカタルシスがほしいとも思うのだ。
いや、ニコラ・テスラとか、ブリューゲルの「バベルの塔」とか、アールデコとナチス第三帝国が混然となった羽柴ビルの意匠とか、当方の趣味に合う部分も多いのだけれど。
で、肝心の筋書きの方なのだが……ずいぶん前に読んだきりで記憶が曖昧なのだが、北村想の『怪人二十面相・伝』ってこんな話だったっけ? 同じ泥棒でも、どちらかといえば二十面相というよりルパンのような印象が……。
- オートジャイロに象徴される、レトロな機械仕掛けへのこだわり
- 鍵を回すことで開示される宮殿の巨大ギミック
- 天翔けるように、屋根から屋根へと疾走する泥棒
- 意に染まぬ婚約に煩悶するお姫さま
- お姫さまと泥棒の束の間の恋
- ラストの抱擁と直後の別離
そう、ルパンといっても、本家本元ではなく、三代目の方をやたらと彷彿とさせるのだ。