批評のこと(9) 「下から目線」に比べれば「上から目線」のほうがずっとマシ。
批評家ならぬ雑文家が、批評について考えてみる「2009-01-26 - 研究会日乗」の続き。
逢坂剛の連載「新・剛爺コーナー」第36回「真理と芸術は、誰のものか?」*1は、推理作家協会賞候補作のうち、受賞作である今野敏『隠蔽捜査2 果断』を
きわめて読みやすい小説
と称揚し、
小説は読みやすいことが第一である!
と見栄を切ったあと、〈剛爺がバッテンをつけた他の推協賞候補作〉である柄刀一『密室キングダム』*2、三津田信三『首無の如き祟るもの』に、以下のように注文をつけました。
選評で、剛爺はこの二つの作品について「小説観の違いうんぬん……」と書き、かなりの苦言を呈した。それは別の言葉でいえば、「ありあまる才能の配分に偏りがある……」という感慨につながる。
〔…〕たとえトリックを一つ考えるだけの、わずかなエネルギーでもいいから、キャラクターの造型や、リアリティの補強に回してくれたらと、つい恨みごとが出てしまう。二人の筆力をもってすれば、その程度のことは楽々とクリアできるのに、そこにエネルギーを注ぐのを潔しとしないのが、なんとも惜しまれるのである。〔…〕
ただ、それをやると本格ミステリーの枠からはみ出してしまう、という論議もあろう。あたかも、純文学でおもしろい波瀾万丈のお話を書くと、「堕落した! 転向した!」と糾弾? される、それと似たような状況になるかもしれない。しかし、小説を書く者はだれしも<多くの人に読んでほしい>と、そう思っているはずである。<分かるやつにだけ読んでもらえればいい>というのは、いささかゴーマンな考え方だろう。少なくとも、出版社経由で商品として市場へ本を送り出すからには、<せめて赤字になりませんように>と祈るのが人情ではないか。お金のために書くのではない、というリッパな作家は出版社などとお付き合いせずに、私費で印刷製本して無料配布すればよいのだ。
私がこの文章の存在を知ったのは、千街晶之「逆風の中の秀作群」*3を読んだときでした。先の逢坂発言を千街は、題や本文で〈逆風〉と呼んだわけです。
千街はつぎのように書いています。
逢坂の個人的な小説観はどうでもいい。問題は、本格系の作家は本の売れ行きを意識していない浮世離れした連中だというイメージで一括りにし、しかもそれを、日本推理作家協会賞における自分の選考姿勢への言い訳として利用したことである(実際には、『密室キングダム』も『首無の如き祟るもの』も重版がかかっているのだが……)。これは明らかに、柄刀と三津田、そして多くの本格系作家への侮辱だろう(逢坂本人にそういう意図はなかったかもしれないにせよ)。売れ行きを基準にするというのであれば、当初はマニア向けと思われていた新本格が、ムーヴメントに発展し一定の読者層を摑んだ歴史について、逢坂はどう考えているのだろうか?
このような暴論でも、協会の前理事長という権威ある立場の作家が発すれば、お説ごもっともとばかりに信じ込む人間が出てこないとも限らない。本格系の作家や評論家はこれに対し少しは怒った方がいいんじゃないかと思うのだが、〔…〕
その後、〈本格系の作家や評論家〉がどう反応したか、それともしなかったか、そのへんは知らないのですが、とにかく千街は逢坂剛に喧嘩を売っているというより、むしろ、言われっぱなしの〈本格系の作家や評論家〉にこそ苛立っているのだ、と私は解釈しました。
千街の問題提起は問題提起として、〈本格系〉でも〈評論家〉でもない私は、またべつの角度から「真理と芸術は、誰のものか?」のことを考えてみました。明日発売の《ミステリマガジン》2009年5月号での連載『誰が少年探偵団を殺そうと。』第9回「まず声変わりを終わらせろ。話はそれからだ。」で読めます。→目次。
この連載は、「少年探偵団is dead. 赤毛のアンis dead.」*4「少年探偵団は二度死ぬ。」*5に続くもので、《CRITICA》3号に載せるつもりでしたが、昨夏、HMMに連載させていただくことになったものです。
《CRITICA》1号・2号でジャンル小説とその読者共同体の変なところを論った私のような者が、「真理と芸術は、誰のものか?」を取り上げるわけで、「いまになって本格擁護とは変節か?」とお考えになる向きもありましょうが、もちろんそんなことはなく、それなら
「火事場泥棒が千街の尻馬に乗って無責任なこと書いてやがる」
と思われたほうがまだ当たっています。
「真理と芸術は、誰のものか?」を読むと、本格好きの人はついつい「本格バッシングか」と身構えてしまうらしいのですが、「大衆小説一般vs.本格ミステリ」という対立図式に限定してしまったのでは、見えてこないものがあります。
本格とかミステリといった特定の名称を無視して、その対立図式を取っ払ってみましょう。
そして、補助線として栗本慎一郎「純文学の衰退あるいは『虚航船団』 筒井康隆について」(1984)*6を横に置いてみる。
すると、あらびっくり。逢坂発言の構造が、1980年に権田萬治が書いた文*7と、逢坂の文の直後に太田光が発表した文*8にそっくりであることがわかります。
もちろん権田を逢坂がパクったわけでもなければ、逢坂を太田がパクったわけでもない。そうであったらどんなによかっただろうと思うのですが、そうではなくて、各自が正直に書いて同じ構造になってしまうという事実にこそ、ガックリきてしまうのです。
本格ミステリ好きでもなんでもないのに、なんで逢坂発言に注目したのかというと、「大衆小説一般」(あるいは主流大衆小説と呼ぶべき?)の支持者(人気ミステリ作家や権威あるミステリ批評家だけでなく、漫才師や読者を含む)はなぜ、本格ミステリやSFや純文学にたいして、上から目線とか下から目線とかで対応するのだろうと、以前から不思議に思っていたからです。べつに本格ミステリを擁護したいわけではない。
それから「下から目線」に比べれば「上から目線」のほうがずっとマシだなあ、とも思っていました。
読者を含む、と書いたとおり、この「上から目線とか下から目線とか」(とくに下から目線)は、人気ミステリ作家や権威あるミステリ批評家だけでなく、漫才師やそこらの善意の読者も同じ権利で行使するものであり、ミステリに造詣が深いかどうかとか、プロ(ってなんだ?)の書き手かどうかなんてことは、まったく関係ない(ちなみにミステリ全般にたいする造詣なら、間違いなく俺より太田光のほうが深い)。
「発言はしたいが責任は負いたくない」という人たちは根本的に誤解しています。自分は知名人でなく一般人であるとか、プロでなくアマであるとかいくら言い立てたところで、「一般人・アマチュア」という自己規定は安全圏でもなんでもありません。
ですからHMMの文中では、作家・批評家・漫才師のような著名人の文章だけでなく、知人(名前は出しませんが)の発言や、『本格ミステリ・ベスト10』がらみでいただいた匿名メールも、例として取り上げています。お急ぎでないかたはお読みいただければ幸甚でございます。
3/25追記 : 159頁下段1行目、「感じに強い」は「漢字に強い」の校正漏れです。ごめんなさい。
「2009-04-08 - 研究会日乗」に続きます。【id:chinobox】
*1:《日本推理作家協会会報》2008年8月号、「ホーム|日本推理作家協会」で全文読める。
*2:文中では『密室のキングダム』と誤記。
*3:ミステリマガジン編集部編『ミステリが読みたい! 2009年版』(早川書房、2009年11月)中の「2008年ジャンル別サマリー」内「日本部門・本格」の記事。
*4:《CRITICA》1号(2006年8月)、のち拙著『asin:4791763211:title』(青土社、2007年)所収。
*5:《CRITICA》2号(2007年8月)。
*7:連載第1回で取り上げた権田萬治「前衛的な水先案内人」、《植草甚一スクラップブック》別巻『植草甚一の研究』(晶文社、1980年)所収。