『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』(その2)

昨日のエントリで、『増補版』が「刊行されました」と書きましたが、実際に書店の店頭に並ぶのは、今日か明日以降になるみたいです。まあ、それはともかく。

今回の『増補版』には、佐野洋氏との「名探偵論争」を始めとして、「都筑道夫の文章の中から、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』を読むうえで、または、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイについて考えるうえで、有用と思われるもの」(編集後記)が追加されています。現代本格という観点から見て、特に興味深いのは、最後の四篇(1988年から90年にかけて発表されたエッセー)で、還暦を迎えた都筑道夫が、自らのミステリ観の変化について語っている文章でしょう。

その流れで読んでいくと、「増補」篇の最後を締めくくる「頭上の侏儒」というエッセーの末尾、「話はかわるが、私は時代小説も書く」以下のくだりが、いかにも唐突で蛇足っぽく見えるかもしれません。ただ、このくだりは別の意味で、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論とつながっていて、都筑道夫の思考パターン(発想のクセ)がはっきり出ているところだと思います。それについて、簡単に触れておきましょう。

文中、「それが、ひょんなことから、大森貝塚の発見者、E・S・モースを探偵役にして、明治十年の東京を書いてみよう、という気になった」とあるのは、「オール読物」1989年12月号に発表された「西郷星」のことです。『魔海風雲録――都筑道夫コレクション〈時代篇〉』に収録されているので、今でも読むのはむずかしくないでしょう。

これはひとことで言うと、アメリカ人居候探偵キリオン・スレイと『安吾捕物帖』を合体させたような小説で、作中の時代設定は、山田風太郎『警視庁草紙』と『安吾捕物帖』の間。謎解きはずいぶん軽めですが、お抱え車夫の雫一太郎(リキシャマン・イチ)ほか、脇役の配置に意を凝らしているので、シリーズ化を意図していたのかもしれません。この短篇で面白いのは、東京大学のお雇いアメリカ人教授のモースが、若いころにポオの探偵小説を読み、推理の方法論を学んだと述べるところでしょう。

「(前略)それで、知りあいから本を借りて、ポオのショート・ストーリイを読んだ。奇妙な話を書くひとでね。人殺しの犯人を、つきとめる話もあった」
「そんな絵入新聞にのるような話を、書くんですか、詩人でもある作家が」
「まじめに考えた小説で、しかも、おもしろかった。殺人事件を解決するにも、事実をあつめて、観察して、推理すべきだ、というんだよ。そうすれば、どんなに不可思議なことでも、明快になるって」
「先生の研究方法と、おんなじですね」

都筑道夫の描くエドワード・モースは、明治十年の日本で、アマチュア名探偵たりうる条件――すぐれた観察力と推理力を持ち、知的好奇心が旺盛で、世間の常識やしがらみに左右されない立場にある――をしっかりと備えている。かつて都筑は「私の推理小説作法」の最終回で、小林久三『暗黒告知』の年代的齟齬を指摘したことがありますが、モースという探偵役の選択は、その問題点を見事にクリアしていることがわかります。

本人も認めているように、晩年に至る過程で、都筑道夫のミステリ観には見過ごすことのできない変化が生じているのですが、その一方で「西郷星」のような作品を読むと、実作者としての名探偵観、あるいは名探偵というキャラクターに求める条件は、「黄色い部屋はいかに改装されたか?」の連載を始めた1970年当時から、ほとんど変わっていないようにも感じられます。【この項つづく】

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

黄色い部屋はいかに改装されたか?増補版

魔海風雲録 (光文社文庫)

魔海風雲録 (光文社文庫)