『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』(その3)
『増補版』の解説のラストで、都筑道夫晩年のミステリ観の変化をめぐって、ジョルジュ・シムノンのメグレ警部シリーズに言及したのですが、なにしろメグレ物は巻数が多いので、未読本が山のようにある。だからメモというより、宿題といった方が正確でしょう。それでもあえて付け加えておくと、1990年代の都筑は、犯罪小説と本格ミステリ(探偵小説)の線引きについて、再考を迫られていたのではないかと思います。
前回のエントリで触れた「頭上の侏儒」は、『読ホリデイ』1990年1月分の記述ですが、その翌々月に書かれた「巴里の色彩」という文章で、さっそくメグレ・シリーズが俎上に載せられています。注目すべきは、休暇中のメグレが「新聞にでる記事を読んで、一般大衆とおなじように、事件を推察しようとする」作品、『メグレ推理を楽しむ』について語っているところでしょう。
これはアームチェア・ディテクティヴになっているわけだが、それが趣向のための趣向でないところも、すぐれた点だ。警察事情に通じた傍観者として、メグレは新聞を読んでいる。カフェのテラスで読んでいて、隣りのテーブルの若い男女が、おなじ記事に夢中になって、意見をのべあうのに、メグレは耳をかたむける。そして、考えるのである。
大衆が犯罪記事に興味を持って、もっとくわしいことを知りたがるのは、決して不健全な興味からではない。人間というものが、どこまで行ってしまうことがあるか、それが知りたくて、熱心に読むのだ、と考える。新聞記事だけを通して、事件を見まもるのは、刑事になってから、はじめての経験なので、メグレは一種の感動をおぼえる。
この部分は、そういうかたちで、犯罪小説の意義を語っている、といっていい。
この指摘が興味深いのは、新聞記事を通したアームチェア・ディテクティヴという趣向が、ポーの「マリー・ロジェの謎」を踏襲している点です。結論を先に言ってしまうと、おそらく都筑は、犯罪小説と本格ミステリの分岐点がそこにあると考えている。ゴシック・幻想文学の系譜に連なる「モルグ街の殺人」より、ジャーナリスティックな犯罪読み物の延長線上にある「マリー・ロジェの謎」への関心が優先しているわけで、晩年のミステリ観の変化はもちろん、モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ論自体のポイントも、ここらへんにあるような気がします。
ちなみに島田荘司『本格ミステリー宣言』が、同じくポーへの原点回帰を訴えながら、『黄色い部屋はいかに改装されたか?』とまったく逆の結論に至ったのは、「モルグ街の殺人」と「マリー・ロジェの謎」の狙いの違いを反映したものでしょう。実在の事件をモデルにしているとはいえ、「密室」という謎をメインに据えている前者と異なり、スキャンダラスな市井の犯罪を扱った後者には、超自然や幻想が羽を伸ばす余地はないのですから。
ところが、「頭上の侏儒」に書かれているのは、ジャーナリズムの進化によって、リアリスティックな犯罪小説も、そうした幻想の領域(狂気)を扱うことができるようになった(扱わざるをえなくなった)ということです。だからこそ都筑は、犯罪小説と本格ミステリの線引きを再検討しなければならない、と考えたのではないでしょうか。
最後の方はまだ考えの整理がついてなくて、論旨が混乱しているのですが、ここから先は今後の課題ということで、いったん締めることにしましょう。【この項おわり】
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